第1話 😁幼少時代の私😁

 人生80年としたら、私の命はあと35年を切ってしまった。
今まで、ろくな人生を送ってきていないが、45年を振り返ってみようかと思う。
 私は、昭和49年1月11日に、新宿で生まれた。母親は、乳離れするかしないかという時期に離婚をしている。離婚の原因は、母親の浮気らしい。
 親父が仕事に行っている間に、私を隣の家に預けて浮気に勤しんでいたらしい。そのことが親父にばれて、離婚となったらしいが、本当の話かどうかは、わからない。ちなみに、浮気相手は、親父の勤め先のオーナーとの浮気らしい。その話を、私が知ったのは、30歳を過ぎてからである。
 だから、母親の事は何も覚えていない。1つ覚えているのは、大雨が降って、雷がすごかった日に、母親に抱かれながら、2人で外を見ていたこと位である。なぜか、そのことだけは今でもはっきりと覚えている。
 親父は、新宿でコックをしていた。いつも夕方近くになると、家を出て行った。
 母親がいなくなった後、私の面倒をみてくれてたのは、おばあちゃんだ。三重県からわざわざ上京してきてくれて、私の世話をしてくれていた。
 しかし、東京の空気が悪かったせいか、おばあちゃんは、しょっちゅう体調を崩し、病院に入院をしていた。おばあちゃんが入院をすると、私はいつも親父が仕事に行っている間、保育所やら、知らない人の家に預けられていた。いつもいつも行くところがバラバラで、知らない人の家に預けられるのは嫌だった。
 3歳になると、保育園に通わされていたが、私は保育園は大嫌いだった。親父は、朝4時か5時頃に仕事から帰ってくると、8時過ぎまで寝て、それから私を保育園に送り、また寝ていた。
 保育園が嫌いで嫌いで仕方のなかった私は、親父が起きる前に起き出すと、すぐに着替えを済ませて、朝食も食べずに、外へ遊びに行っていた。最初のうちは、親父も私を探し出すと、家に連れ戻されて怒られたりしていたが、私も毎日同じことを繰り返していたら、そのうち親父も諦めて、怒られることも、家に連れ戻されることも一切なくなった。
 たまに、2ヶ月か3ヶ月に1回、保育園に行きたくなる時があり、その時は保育園の先生に、
「今日、保育園に行くね」
と、電話をしてから保育園に行っていた。
 基本的には、保育園に行くのが嫌いだった私は、親父が仕事に行くまで家に帰る事はなかった。外に自転車が置いてあると、まだ仕事に行っていないと言う事だから、自転車がなくなるまで家には帰らなかった。
 昼飯はどうしていたかと言うと、知らない人の家で食べさせてもらったり、親父が起きているか様子を伺い、まだ起きていないのがわかると、家に戻って、おばあちゃんに食事を作ってもらい食べていた。そして、食事が終わると、また外に遊びに行っていた。
 私は毎朝、7時ごろ起き出すと、着替えて外に遊びに行ってしまうが、こんな早い時間から何をしているかと言うと、新宿の街をウロウロウロウロしていた。
 神社に行ったり、公園に行ったり、とにかく気の向くままやりたいことをやり、行きたい所へ行って遊んでいた。今ではとても考えられない話である。私の子供時代の話をしても、とても信じられないだろうが、全て本当のことである。とにかく自由気ままに好きなことをしていた。
 子供の頃から束縛をされるのが何よりも嫌だった。1人でいろいろなところに行ってしまう私の行動範囲は、子供の限度を超えた、広範囲に及んでいた。
 コインランドリーで洗濯をしているお兄さんがいると、自分から話しかけて行き、ゲームをやらせてもらったり(コインランドリーの中に、ブロック崩しとテレビゲームが置いてあった)、挙句の果てには、そのまま後楽園遊園地に連れて行ってもらったりしたこともあった。今思うと、よく事件に巻き込まれたりしなかったものだと思う。
 日曜日は、親父の仕事が休みだから、その日だけはなぜか外に遊びに行ってしまう事はなかったのだが、親父が今日は仕事が休みだと言うことを、どうやって判断していたのかは、今となっては覚えていない。
 親父が、休みの日は、動物園や、遊園地、高尾山の釣り堀などに連れて行ってもらったり、歌舞伎町に馬券を買いに行った後、歌舞伎町周辺の公園に連れて行ってもらったりして、遊んでいたこともあった。
 親父の仕事が歌舞伎町だったことや、仕事場に、たまに連れて行ってもらったりしていたことがあり、歌舞伎町には、よく遊びに行っていた。
 夜、家を飛び出して、1人で親父の仕事場に行って怒られたこともあった。
 生まれてから3歳位までは、大久保に住んでいて、4歳から小学校入学するまでは、北新宿に住んでいた。
 朝も夜も私には全然関係がなかった。夜でも、例えば消防車がサイレンを鳴らして走っていくのを見つけると、家を飛び出して、消防車を追いかけたり、事件か何かで、お巡りさんが家の周りをうろうろしているのを見かければ、一緒になってお巡りさんについていってしまったりと、とにかく落ち着きのない子供で、大人であれば、誰にでもくっついて行ったりしていた。
 だから、同じ年頃の子と遊ぶと言う事は、ほとんどなく、いつも小学生や大人のそばに行って遊んだりしていた。
 私は、テレビも大好きで、親父がよく、太陽に吠えろや、刑事ものを見ていた影響で、掲示物のドラマが好きだった。テレビで見たシーンを次の日、神社や駐車場等に行き、真似をするのである。 
 犯人が車のボンネットや屋根に登って、逃げるシーンを真似して、車から車に飛び移ったりして遊んで、とても怒られたことがあったが、なぜ怒られたのか、その時は、全く意味がわからなかった。私からしたら、テレビの真似をして遊んでいただけなのに、と言う感じであった。
 親父は毎日仕事に行く時、お金を200円置いていってくれた。その200円を握りしめて、駄菓子屋に行き、駄菓子を200円分買い込んでいた。私が好きだった駄菓子は、麩菓子と、きなこもちである。
 夕方、お腹が空くと家に帰り、夕食を食べて、お風呂に入る。お風呂に入ると、テレビの前にかじりつき、ダイヤルをガチャガチャ回して、アニメを見る。番組が終わるたびにダイヤルをガチャガチャ回し、アニメをやっていないとテレビを消して、外に遊びに行ってしまう。
 夜であろうが、なんであろうが、私には全く関係がなかった。おばあちゃんは、よく心配して私を探してくれていたが、私の行動範囲は広すぎて、探せるものではなかった。 
 夜遊びしていたことを、親父は知らない。おばあちゃんが、親父には内緒にしてくれていた(?)からである。
 夜、外に出て何をしていたかと言うと、1人でパトロールをしていた。これも刑事ドラマの真似なのだが、街を歩いている人に声をかけて、怪しい奴がいなかったかを、聞きまくっていた。私が1番怪しい子供だったことだろう。
 今なら間違いなく、新宿など、子供が1人で歩いていたら、大問題になっていただろうし、間違いなく補導されていたことであろう。
 そして、とても有名になっていたかもしれない。
 自称夜のパトロールが終わると、私が最後に行くところが、ゲームセンターである。ゲームセンターは、毎日行っていた。
 いつも行くゲームセンターは、決まっていた。何故かと言うと、そこのゲームセンターに行くと、店員のお兄さんが好きなゲームを、5回行くたびにただでやらせてくれたからである。しかも行くと、ジュースも必ず一杯ご馳走してくれた。
 私のお気に入りのゲームは、レーシングゲームと、インベーダーゲームだった。
 4歳にして、夜の新宿をふらつき、ゲームセンターに出入りしていたのは、私位のものだったと思う。
 信じられないだろうが、毎日こんな生活を、私は当たり前だと思って過ごしていた。だからたまに、自分より少し大きな子と遊ぶと、その子たちの親は決まって、
「〇〇には言っちゃっダメよ、危ないから」
なんて言われるので、理解できなかった。なぜなら私は、1人でそれより先まで行って遊んだりしていたし、何も危ない目にあったことがなかったからである。だから、ダメと言われても、私は無視していた。
 何よりも理解できなかったのが、なぜ大人の目の届く範囲でしか遊んではいけないのか、そんなことを1度も言われたことのない私には理解のできないことであった。
 夜、ゲームセンターに1人で遊びに行くことも、大人の目の届かないような遠くで遊ぶことも、私にとっては当たり前に毎日やっていることだったから、いけないことをしていると言う自覚は、全くなかった(怒られたことが一度もない)。
 今じゃ全く考えられないことだが、私の子供の頃の新宿は、とても楽しく、住みやすい街だった。
 新宿の街が、今の私を構築したといっても、過言では無い。
 新宿のような、ごみごみとした都会が好きかというと、残念ながらその逆で大嫌いである。都会の街には、全く魅力を感じないし、行きたいと思うこともない。
 3歳、4歳、5歳と新宿の街を駆けずり回って遊んでいた私だったが、新宿よりも好きだったところは、三重のおばあちゃんの家である。4歳か5歳の時、数ヶ月間、おばあちゃんと一緒に田舎で生活をしていた。 
 美杉村と言うところで、周りは山と、川しかない田舎だったが、そこが私にとっては、1番のお気に入りの場所である。
 周りは、みんな身内の人みたいな感じで、どこの家に遊びに行っても、私のことを知らない人はいなかった。
 ちょうど夏ごろに行ったので、よく隣のおじさんに、川に連れて行ってもらった。おじさんは、川であゆを釣っている間、私は川に入って1人で遊んでいた。
 おばあちゃんの家には、親父の弟と、多分おじいちゃんだと思うが(おじいちゃんの記憶が全くないので、もしかしたら違うかもしれない)3人いたように思う。
 おばあちゃんが、おじいちゃんを置いて、1人で東京に来ていたという事はないだろうから、近所の人だったかもしれない。
 三重に住んでいた人たちは、みんな、私はいつもちょろちょろしていて、ちょっと目を離すと、どこへ行ったか分からなくなると言っていたそうである。
実際、山だろうが、川だろうが1人で行ってしまうから、目を離せなかったらしいが、家の周りは私の遊び場の宝庫だった。
山や畑に行けば、泥だらけで帰ってくるし、川に行けば全身びしょ濡れで帰ってくるし、かなりのわんぱくぶりを発揮していた。
 親父の弟、私にとっての、おじさんは私のことをとても可愛がってくれていた。私が、小学校に入ってしばらくして親父から聞いた話だが、おじさんは本気で私のことを引き取って、三重で私を育てようとしていたらしい。その話を聞いたとき、私はなぜそうしてくれなかったのかと、親父を恨んだ。
 私的には、東京なんかより、ずっと三重に住んでいたかった。それくらい、三重は私にとって魅力いっぱいで、楽しいところだった。
 私が、都会より、山や川がある田舎が大好きなのは、この頃の影響が大きいと思う。
 おばあちゃんと東京に戻る日、戻るのが嫌だった私は、かなりゴネたことを覚えている。もし、あの時、家でずっと生活をすることができていたら、今みたいな人生を歩むことはなかったんじゃないかな……と思う。
 ちなみに、私を可愛がってくれたおじさんは、大工さんだったが、私が小学校2年生の時に、仕事中屋根の上から落ちて亡くなってしまった。
 おじさんは、親父に、私を欲しい。俺が引き取って育てたいとよく言っていたらしい。とても残念である。もし、あのまま三重に残ることができて、三重で育っていたら、おじさんも仕事中に事故で亡くなることもなかったのではないだろうか。あそこで人生の歯車が大きく変わってしまったと思う。そもそも、親父の子として生まれた時点で、私の人生は終わっていたのかもしれないが……。
 私が親父を恨んでいるのは、このことだけが原因ではないが、このことも理由の1つではある。
 三重から戻って、再び新宿で生活をすることになった私は、それまで以上のわんぱくぶりを発揮したのは、言うまでもない。
 この頃、休みのたびに親父に連れられて、後に親父の再婚相手となる人の所へ行ったり、3人で出かけることが多くなってきた。今思うと、私が慣れるために接触する機会を作っていたのではないかと思う。
 親父の再婚相手だと知らなかった私は、いつも「お姉ちゃん」なんて 呼んでいたが、気色悪い話である。
 私が小学校に入学するちょっと前に、結婚式もやっている。
 こうして私の人生は、乳離れするかしないかと言う時期から、少しずつ狂い始めていたのである。
多分、私のような幼少期を送った人など、どこを探してもいないのではないだろうかと思う。
 小学校に入学するまでの私は、毎日自由気ままで、行きたい所へ行き、やりたいことをやり、手の負えない子供だった。
 私にとっては、毎日が冒険であり、毎日がとても楽しかった幼少時代である。