背中

僕は君と目線を合わすようにして、少しだけしゃがみながら話をしていた。これは君と話す時の約束で、同じ景色を見たいからっていうそういう理由だった。もちろん、景色というのは目線の先にあるものだけでないことは承知だ。君が遠くへ行きたいと言えばついて行ったこともある。海を見たいと言えば海へ、夜景が見たいと言ったら夜景を見に。僕たちはいつも一緒に行動をしていて、お互いは家族のような愛情を持っていた。
そんなある日、彼女は約束を断ってきたんだ。
「実はね、上京しようと思ってるんだ」
「そっか」
「やっぱ無理かな」
「いや、お前なら必ず出来るさ」
「ありがとう」
そういう会話をしてから、もう10年が経っていた。俺は地元の大学を卒業した後に何を血迷ったか、自称ミュージシャンと名乗り大した才能もないくせして活動していた。
地元のクラブでライブをした後、家に戻ってきたところで母に声をかけられた。
「そういや、仲良くしてたあの子明日に帰ってくるらしいよ」
「ふーん、そうなんだ。」
少し嬉しかったが、この歳になって騒ぐのもおかしな話だと思って適当な返事をしておいた。実際のところは、この話を聞いた瞬間から必ず会おうと思った。
そうして、翌日を迎えた。特に焦る必要もなく帰ってきて早々家に挨拶をしにきてくれた。俺は玄関先で出迎え、家の縁側で話をした。
「ずいぶん会ってなかったな。元気してた?」
「もちろん。何で連絡くれないのよ」
「もう、そんな子供じゃないだろう」
俺は何度か連絡を入れようとは思ったのだが、いつまでも君を見ているのがが恥ずかしくなってやめた。続けて、話題を掻き消すようにこう質問した。
「東京はどうだ?やっぱしすごいか」
「うん。私ね舞台女優になったよ」
「そいつは、すげぇな。今度見に行ってやろう」
盛り上げたつもりだったが、内心完全にやられた。同じ景色を見ていた、あいつが今じゃずいぶんと高いところからの景色を眺めていて、俺はその光景にただ圧倒されるだけのちっぽけな存在だということに気づいたからだ。
「あのさ、早く言いたかったんだよね。私は頑張ってるよ、ただがむしゃらに。だから、一緒に頑張って欲しかった」
俺はいつまでミュージシャンなんかやっているつもりなんだろうと思った。頑張っているフリをしているだけで、実は空虚な存在だったんだ。
「お前さ、俺にそれ言うために来たのか」
首を横に振ろうとも縦に振ろうともせず、彼女はただ俯いているだけだった。帰り際に聞こえはしなかったが、口元が動くところが見えた。
"頑張りなさいよ"と確かにそう言っていたと思う。
相変わらず背が小さいには変わらなかったが、昔見た背中よりずっと大きかった。