人間失格だらけの人間試験

「お前、本当に理解力ねえな」
中学一年生の頃、技術の教員に36人の面前で放たれたこの言葉とこの声色を今でも覚えている。他人から言われる言葉に今よりもだいぶナイーブだった頃のわたしはそれがどうしようもなく心に突き刺さったままはなれなくて、作業用エプロンを着たままだったのにも気づかず終了チャイムと共に教室を飛び出した。情けないけど、紺のセーラー服と学ランの群衆が行き来する時間帯に大泣きしながら廊下を走って、走って、走った。「理解力がない」、イコール頭が悪い、あたまがわるい。わたしはあたまがわるいのだ、同級生がわたしを見るあの哀れみと好奇心を混ぜたかのような視線が何よりも痛かった。
思えばなんかズレてるなーって思い始めたのは小学生の頃だったかもしれない。友達はみんな信頼できなかったし、家庭科の授業でミシンを使うのが本当に苦手で一人だけミシンを作動させるとき「ブウゥーン」なんてあほな音を立てさせていたのはわたしだけだ。
先生が取り付ける「締め切り」の日までにエプロンを完成させないといけない。でも先生は、「もう説明したでしょ」と言ってほとんど助けてくれなかった。友達も自分のものを完成させるので手一杯だったし、それに関しては別に気にしていないけれど、「うわあ」と言ってわたしの針とボビンの間で絡まりまくる糸くずを見て哀れみのような、見下すような、自分はこいつみたいじゃなくて良かったというような、まだ全然できてるやつがいなくて面白いというような、そんな顔を見るのが嫌で仕方なかった。
小さいことだ。本当に小さなことなのだ。大人からすれば、何のこれしきっていうようなこと。
「そもそも人間に向いてないんじゃないかなあ」、日記にはよくそんな感じのことを書いた気がする。今でもよく、というか毎日思っている。
もし生まれる前に人間として生まれるためのベイビー専用「人間試験」なんてものがあったら、間違いなく百人中九十九人は落第する。残りの一人は、人間試験をパスしておきながらもきっと人間としては生まれてこない。なぜなら神様に愛される完璧な存在だからだ。
わたしを含めてこの世界に生きとし生きる人間はきっと、人間にすらなり損ねた人間じゃない何かなんだとたまに本気で思ったりする。だから苦しみがあって、憎しみがあって、終わらない嫌悪がある。人間がなぜ生まれる前が一番愛されているのかって、たぶんそういうことだ。試験を受けるまでは、その胎児は「完璧」だからだ。試験をパスできなかった、あー神様に愛されなかったからわたしは完璧じゃないし欠落したまんま、あー、おぎゃあ。おぎゃあ。
年明けとか全然実感ないからまだ2018年気分でいる成人の日。原因不明の息苦しさと喉の辛みに、
今日も悩まされている。