エッセイは難しい

    数ヶ月間、ここでエッセイ(らしきもの)を載せてきて、今更こんなことを言うのもどうかとは思うのだが、エッセイは難しい。少なくとも僕にとっては、という話だが、同じような感想を抱く方もいらっしゃるかもしれない。
    そもそも僕のこの文章を、何の実もない雑文を、エッセイと呼べるのか?それについては話し出すと長くなるため、ここでは恐れながら、一応、エッセイとしておきたい。
   僕がエッセイを書き始めたのは、村上春樹の『村上ラヂオ』がきっかけだ、という話は以前した(気がする)。その『村上ラヂオ』収録のエッセイにこんな文章をみつけた。
    とはいえ僕にも、エッセイを書くに際しての原則、方針みたいなのはいちおうはある。まずひとつは人の悪口を具体的に書かないこと(これ以上面倒のたねを増やしたくない)。第二に言いわけや自慢をなるべく書かないようにすること(何が自慢にあたるかという定義はけっこう複雑だけど)。第三に時事的な話題は避けること(もちろん僕にも個人的な意見はあるけど、それを書き出すと話が長くなる)。
(村上春樹「エッセイはむずかしい」、『村上ラヂオ2 おおきなかぶ、むずかしいアボカド』収録、新潮文庫、2013年、p.32~p.35)
    僕はこれを読んだとき、「いやほんとそうだよな」と、赤べこみたいに何度も頷いた。これは村上春樹にだけにいえることだけでなく、エッセイを書く全ての人にとっても、一読すべきものではないだろうか(無論、こうしなさい、というものではないんだけど)。
    僕は、この三点に特に気を配っている。そりゃ僕にだって愚痴を吐きたいときだって、時事問題に意見したいときもある。しかし、そのときに、まず考えるようにしている。「これを誰かが見たときに、気分を害するものにならないだろうか?」と。やはり、読者あってのものですからね。
    少なくとも僕にとって、人の愚痴ほどどうでもよくて煩わしいものはない(たとえそれが体裁上、頷かなければならない状況だとしても)。無論、人間という生物は愚痴を吐きたくて仕方がないシステムを抱えているし、愚痴を吐くためだけに生きているような人さえいるくらいだ。そのくらい、僕にだってわかる。しかし、僕が言いたいのは、果たしてその愚痴を誰かに見せびらかす必要があるのだろうか、ということだ。まぁ「励ましのお便り」というシステムがここにはあるけどさ、ただの自己中心的な不平不満を喚き散らすのは、少なくとも僕は違うんじゃないかなと思う。まぁ利用方法は人それぞれだけどさ。ちなみに僕は、普通、愚痴は書きません。抽斗にしまうか、捨てるだけです。
「じゃぁお前の書く文章が他人の気分を害さないとでも思ってるのか」と言われちゃうと、僕も困り果ててしまうけど、少なくとも害にはならないように努めています。害になってないといいな。
    いやしかし、エッセイは難しいなぁ。