真面目さと向き合う

お便りでは書き切れる気がしなくて、つながりノートを書かせていただきました。私は瞳さんのこのノートに、とてもとても共感しました。
中学生の頃、4つの小学校から集まった生徒たちの中で、私はどこまでも凡人でした。強いて言えば同学年の中では少し勉強ができたくらい。180人中10〜30位内を行ったり来たりしていました。
髪型も制服も規定通り。眉毛もいじらなかったし、化粧なんてもちろんしませんでした。私の学年は皆お利口さんだったから「そんなの当たり前」という風潮はあったものの、やはり側から見たら「真面目」としか言いようのない子どもだったと思います。
実際多くの同級生から「カチューシャさんは真面目」と、さん付けの上「イジれない子」として扱われました。それは私が抱く私のイメージとは全く違ったため、ものすごく否定したい気持ちでした。でも、否定しようのない真面目な子でした。
悩んだ私は、先生との連絡ノートに「真面目だと言われるのが嫌だ」と書きました。すると先生は「真面目というのは大人になると必ず財産になる」というようなことを返してくださったのですが、私はその言葉をずっと成長してからしか受け入れることができませんでした。
真面目だと言われるのが嫌だった私は、酔狂な、ぶっ飛んだ人に憧れ、そうなろうとしました。大学時代などは無理をして、自分の真面目さを努めて押し殺したものです。
そのような時期を経て、やはり真面目な人間は真面目さを尊重した方が良いという結論に至ったのですが、自分の真面目さを活かすことは案外難しく、まだまだ手探りで暮らしています。
しかしながら、他人から「真面目ですね」と言われた時、それがビジネスに全く関係のない場面であれば、私はネガティブに捉えます。きっと話していてつまらないのだろう。距離を置かれたのだろう。そう感じます。
真面目という言葉が使われる場面は、本心である場合と建前である場合があると思います。それがビジネスにおいてという文脈であれば大方褒め言葉だと思いますが、ニュアンスの問題だとも思いますから、一概には言えません。
そういえば私は「真面目だね」のほかに「頭が良いね」もよく言われます。この言葉も真面目と同様、一線を画されたと捉えることがほとんどです。
今でも私は、例えば純文学が好きだとか、宇宙の話が好きだとか、そういうちょっと小難しいと捉えられがちな趣味について話す時は、「自分もよく分かっていない」ということを強調する節があります。
こういうバカみたいな工夫をいつまで続けたら良いのだろうと思うことも多々あります。しかし本当に私を理解する人はいて、その人とは普通に、ありのままに話ができます。
そういう人としか長い付き合いはできないものでしょう。ですから、たくさんの友人を作るには不運な性格だったなぁと、惜しくもない諦めの気持ちをもって、何となく折り合いをつけています。
さて、そんな私が誰かに「真面目だね」と言う時は、大抵褒め言葉です。本心なのか建前なのか分からない言い方はしません。本心なら理由まで述べますし、建前というか、イジりならふざけた声色で言います。
それは「真面目だね」と言われ続けて嫌な思いをしてきた私の、せめてもの配慮です。