新卒デザイナーが上司のパワハラで「I can flllllllly!!!」って会社のベランダから飛び降りて鬱と診断され即入院〜諸々あったけど社会復帰を果たすまで〜07

「新デパ I can flllllllly!!!」第8回です!
台風大丈夫ですか??わたしは絶賛大丈夫じゃないでーす!!気圧に押されて頭痛が酷い!先程まで泥のように眠っていましたよ〜。鬱に罹患した後からは偏頭痛持ちなのでヒゲがビリビリするよォ!(by:魔女の宅急便)
でも何かしら書いてれば気がまぎれるかなと思って、いまこのノートをつけてます。数時間前から外が恐ろしく静かになりましたが、過ぎ去ったのか、目に突入してるのかわかりませんねぇ。
今までのことを思い出しながら書くということは初めての試みですが、当時はグニャグニャとして形を持たなかった言葉たちがわたしの中ですっと一纏めになって出てくるので、終息を迎えてないにしても大分落ち着いたのだなあと考えています。
気楽にやってく方法なんかを書いていくつもりが自分のことみっちり書いてるから平気かなあなんて心配ですよ。ハイ。
今回のノートなんですが、わたしにとっては一番辛い時期となります。
色々としんどい言葉が出て来る可能性がありますので、現在精神状態が安定していない方の閲覧はお勧めいたしません。
※このノートはわたしの身に降りかかった事を元に、ちょっとだけフィクションやブラフを混ぜ込んで作られています。
前回は転職した先がまさかのトンデモパワハラ会社!こりゃダメだ〜と退散したけど、時すでに遅し。鬱の魔の手が再びUlfを襲う!
もういい加減にしてくれぇ!!
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第8話・〜ドクターショッピング〜
「亡くなりました」
多分、一番しんどい時期。
ぼんやりと頭の中が霞みがかっていて、この辺りの記憶は飛び飛びです。数年間の抜けた所は、もう脳の方がこころを壊さないように「忘れていいよ」って言ってるのか、「辛い記憶なんて要らない」って言ってるのか。
この時期を越えた今感じるのは、辛いことなんかあると胸のあたりがギュッとなるけど、本当のこころは頭の中にあって、脳の記憶を司る場所と密接に繋がってるんじゃないかなと。
本当に辛いことは思い出そうとしても中々思い出せないのはそのせいかなと。そんなことを考えます。
わたしは別名義でTwitterなどの場所で創作活動もしているのですが、その時のお話をちょっとだけ載せます。
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 祖母が死んだ。
 わたしの家は生まれた時から共働きだったから、朝から祖母の家に預けられ、両親は仕事へ出かけて夜まで帰ってこない。小さい頃、わたしは甘えん坊だったから、どこへ行くにも祖母の後をついてまわり、駄々をこねてはよく叱られていました。結局最後は祖母が根負けして欲しいものを買ってくれましたけど。
祖母はもうだいぶ歳を重ねていたので、やたらにうろちょろするわたしと出かける時は、スーパーマーケットのフードコートでアイスクリームを買ってくれました。わたしがアイスクリームを食べたかったのか、祖母が休憩したかったのかは覚えていないのですけれど、祖母と買い物に出かける時はなんだかとても嬉しかったです。
 小学生に上がった時は祖母と離れたくなくて通学路でしゃがみこんで手を繋がれていやいや学校に行ったり、中学に上がった時は思春期特有の親嫌いが酷くなって祖母の家に住み込みました。高校は趣味が、成人後は仕事が忙しくなり、稀にしか会わなくなった頃にそれは起きました。
 祖母が道路の段差で怪我をして、寝たきりになったと聞いた時、なんでひとりで買い物になんか行ったんだろうって、怒りに身を任せました。でも、わたしが成人して祖母の家から離れてしまったから、祖母はひとりで買い物に行ったんだと考えた時に、無性にくやしくなりました。
なんで、なんで傍に居られなかったんだろう。じゃなかったら、そんな段差に躓くことなんてなかったんだと。
 晩年、祖母はわたしを遠ざけるようになりました。ベッドの上にいるやせ細った祖母は、自分の姿を見て欲しくないようで。それは今の姿を見ないでほしい、と言ったことだったんでしょうね。
来ないでいいからねと、頻りに言われたのを覚えています。そして祖母の病状は緩やかに悪化し、ヘルパーさんのお世話になることが決まりました。
「もう、おばあちゃんだめかもしれないから、早退して病院へ行って」
 緊急連絡先としていた携帯電話が、仕事中に鳴りました。バスに乗って病院へ向かうまで、それが事実だとは受け入れられられずに、ずっと窓の外を眺めていました。嫌な報せと言うものは、いつだって突然で無遠慮です。
「最期だから、手を握ってあげて」
 先に来ていた母が言いました。祖母はすでに自分の意思ではままならない呼吸で、酸素チューブをつけていました。あんなに痩せて骨ばっていたのに、祖母の手は点滴でパンパンに浮腫んでいて。
 わたしは声をかけて、手を握りました。きゅ、と微かに握り返してくれたのは、気のせいでしょうか。意識も朦朧としている筈だから。
 その日、祖母はその生涯を閉じました。
 葬式は身内だけでこぢんまりとしてね、生前からの約束で、祖母は小さなお堂で、小さな棺に入り、小さな小さなお骨になりました。
 わたしは従兄弟の小さな子たちがいる前で、誰よりも泣きました。この叔母ちゃんはなんでこんなに泣いているのかと、そう思われたかもしれないですが、つらくて、つらくて、つらくて。
 わたしが生まれてから祖母を喪うまで、どれくらい祖母を愛していたか、貴方達は知らないでしょう。
 ずっと親元を離れていたわたしに大部屋を貸してくれ、成人式の着物は一式買ってくれた。喜んでくれた、笑ってくれた。
 でも、やっぱり。わたしの時は、あのスーパーマーケットの、フードコートで止まっています。二人でひとつのアイスクリームを食べてさ、口の周りをべたべたにしながら、美味しいねえ、美味しいねえって、言ってたあの頃が、どうしても、どうしても頭に浮かんで来てしまいます。
 おばあちゃんごめんなさい。わたしは親不孝ものです。貴方のお墓の前に、貴方がこの世にいない証明を見に行くことが、十年近く経った今でも出来ません。
 貴方の最期の、あの手の温もりが忘れられません。
 もう居ないと自覚すると、その度に泣いてしまうので、わたしはまだ、祖母の前では甘えん坊のままです。
 悲しい顔は見せませんでしたね。代わりに怒ったり、笑ったりは良くしていた気がします。愛の深い人でした。
 わたしが小学生の時に文集に「おばあちゃんが大好きです」と書いたのがよほど嬉しかったのでしょう。そして度々読み返して居たのでしょう。祖母のだいじなものを入れた箱にしっかりと保管され、没後見つかりました。
わたしはその文集を一度捨てたことがあるのです。思春期特有の、反発心からです。祖母はその後、ゴミ箱に捨てられたそれを拾って持って居てくれたんですね。
 今まで愛を持って育んでくれて、ほんとうにありがとうございました。
2018/06/06 初出「いまでも傍にいる貴方へ」加筆修正版
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そんなことが起きました。
塞ぎ込んでいる時期に、育ての親である祖母が亡くなりました。祖母が怪我をして亡くなるまで、実際には数年間の出来事なのですが、もうとにかく厳しかった。
また目が捉える色がおかしくなっていましたがその時の職には支障はなかったのですけど、もう、なんと言いますか。生きる希望なんてものが完全に失われました。
大げさに聞こえるかもしれませんが、幼少時わたしを執拗に殴ったり、寒空の中裸足で外に放り出すような親なんかよりも愛していましたから、こころにズドンと大穴が空きました。
なんでしょう。わたしはその時「仕事をせねばならない」と、その一心だけで生きていましたから、仕事に穴を開けないようにと心療内科へ通いながら仕事を続けていました。
そしてある日。突然その心療内科が数週間休診になりました。わたしは睡眠障害の薬も処方されていたので、薬が切れるのは非常にまずかったのです。
(睡眠薬は最長14日分しか処方されません)
眠れない日が続き、日中の頭痛が酷くなり、会社を休みがちになりました。
完全に鬱を再発していました。
病院へ問い合わせる為に度々電話をしていたのですが、やっと診療を再開したそこは長蛇の列。
元々その心療内科は待ち時間が長く、座れるスペースもなかった為、外でお茶飲んだりしてたんですが、久々に診察を受けたら違う医師。
「先生お亡くなりになったんです」と。
急死とのことでした。
心療内科で大事なのは医師との相性だと思います。わたしはその後の先生とは相性が合わず、処方された薬もあまり合わず、ドクターショッピングをすることになります。
数ヶ月の間転々と心療内科や精神科を周り、その間さまざまな診断が下され、薬が渡され、薬はまた、1回20錠程に増えていました。
思考はどんよりとし、体重は増え、動きは鈍り。前の方が良かったのかもしれません。「4にたい」と考えることができていたぶんだけ。
ネット掲示板や、い●ちの電話にSOSを発信することができていたぶんだけ。
仕事も辞めました。
わたしのこころを繋ぎ止めるものはなくなりました。
わたしはその時、一度、完全に。死んだのだと思います。
〜第8話・おわり〜