願い事

「これは、あまりにも暑い」
ちょび髭の男が汗をふきふき町を歩いている。歩道を進み、交差点を渡ろうとしたところで信号が赤に変わる。
おとなしく立ち止まった男はしばしの後、数歩右にずれた。信号機の影に入って一息つく。
電器店のショーウィンドウ、消音のテレビの中でアナウンサーが無言でしゃべる。
映し出されたテロップは語る。
『今年最高気温更新。埼玉で37.5度』
「全く、まだ7月も前半だと言うのに」
耳元でした声に顔を上げると、背の高い男が渋い顔をしていた。
なんとなく見覚えがあるような無いような顔。視線が合い、会釈を交わす。知り合いだろうか?暑さに茹る頭では正しい判断がつきそうにない。
「おや、信号が変わりましたよ」
振り返れば確かにその通りで、なんとなく流れで連れ立って歩くことになる。
「それにしても最近の気温は異常すぎやしませんかね?37度なんて、体温よりも高いじゃありませんか」
続く彼の言葉に思わずちょび髭の男も頷く。
「そうですな。私が子供の頃は、もう少し過ごしやすい気候だったような気もするもんですが」
背の高い男は我が意を得たりと何度も頷く。
「ええ、そう、本当に!『夏休みの宿題は朝の涼しいうちに』なんて言われても、今じゃ『涼しい時間』なんてありゃしませんよ!」
「はは、そんなこと言われてましたねぇ。夏休みは毎日外で遊びまわってましたな」
今なら熱中症になりそうだ、と同意の声がする。
「私が子供の頃なんて、エアコンも無いもんですから、夜は扇風機でしのいでいましたよ。熱帯夜なんて呼んでた特別暑い夜がたったの25度程度なんて、今じゃ涼しいとしか思えないでしょうな」
「ああ、それですよ、エアコン」
背の高い男は悲しげにつぶやく。その調子が気になって、視線で続きを促した。
「室外機ですよ、室外機。排熱が気温を上げているんです」
彼の足が止まり、つられてちょび髭の男の足も止まる。横断歩道の手前で、信号が赤く変わる。
立ち止まる二人の横から熱風が吹き寄せる。
埃と黴の混じったにおい。ゆるい緩急。室外機からエアコンの排熱が二人を襲う。
「まぁ、確かにそういう話も聞いたことがありますな」
ぼんやりとした同意に背の高い男は重々しくうなずく。
「そうです。その通りです。
 排熱で増えた熱から逃れるためにエアコンを使い、さらに排熱を増やしていく。くだらない堂々巡りだと思いませんか?」
そっと背中を押され、二人は一歩室外機に近づく。不快な熱風がひときわ強くなり、襲いかかる。
「エアコンなんか無くしてしまえば良いのではないでしょうかね?」
「……いや、それはさすがに無理があるんじゃないかね…この気温では熱中症が…」
「ですから、もう世界中のエアコンを一気に無くしてしまえば?
 いっせーのせ、でなくせばもう排熱が無い分、温度を下げる必要もないのでは?」
そう告げる男の声は至極平坦で、当たり前のことを繰り返しているように聞こえる。話の内容も至極単純で、何も問題が無いように聞こえる。
そんな単純な話とは思えないが、具体的に指摘する穴を見つけることがこの気温に溶ける頭ではできないでいる。
「そうはいっても、世界中の人を説得するのは無理でしょうなぁ」
「はは、確かに。でも、もし実現できるのならそう願いますか?」
背の高い男に顔を覗きこまれ、ちょび髭の男は言葉を失う。
そんなことを願ったって実現するわけもないし、真剣に考えるのも馬鹿らしい。
「どうです?ほんのお試しに、願ってみませんか?」
彼のお遊びに付き合って、願い事を唱えてみても何かが起こるわけでもない。
ならば、べつに唱えない理由があるわけでもないのではないだろうか。
「ちょっとしたお遊びですよ。さぁ、ほら?」
暑さにぼんやりしたまま口を開きかけた時、冷たい風がどっと吹き寄せた。
「あの、すみません…」
「ああ、これはこれは失礼しました」
気づけば2人は喫茶店のドアを塞ぐ形で立ち尽くしていた。中から出てきた若いカップルに頭を下げ、道を開けて通してやる。
大きく開いた自動ドアからは寒すぎるほどの冷気が漏れ出、暫しの後にゆっくり閉じた。途端に、堪え難いほどの熱が襲いかかってくる。
「そうですな、確かにそれも面白そうですが、そう言うことはゆっくり頭を冷やして考えないと」
ではまた、と頭を下げてちょび髭の男はいそいそと喫茶店に入っていく。冷たい風が辺りを束の間癒し、そして消えてゆく。
背の高い男は無言でそれを眺め、無表情のまま前を見て歩み去った。