何にも持たされずに生まれてきた

今日も今日とて録画したドキュメンタリー番組を消化しておりました。
今日観たのは『川崎サウスサイドラップ』
川崎で生きてラップをする人々の生活、生活、そして生活でした。
ラップに興味関心を持つきっかけが「ヒプノシスマイク」ということもあり、生身の人間から等身大のまま生まれてくるラップには正直言って、うといのです。
だからこそ、バックボーンを知ることでフィクションを解釈する土台が豊かになるような気持ち。
さて、つまりは生身の人間のラップにはこれまでピンときてなかった、というわけです。
流行のラップミュージックが主題としてきたのは家族・故郷賞賛、というなんかコテコテの価値観のように思えて、自分の中では熱くなかったんですよね。
それが、
ラップミュージックは、何にも持たされずに生まれてきた人間の縋る、よすがの一つである、というのが見えると、分かりが出てくる。
何にも持たされずに生まれてきた、というのは生得的な環境の話です。
家族がすぐに亡くなって、入れる墓すらない。
金がなくて祖母に寝起きに4万せびられ、週6でバイトしながら大学へ行く。
国籍すら与えられず、ルーツを辿った先でも「よそ者」としてしか扱われない。
眠らずに黒煙と光を放つ川崎の工場の中、命がけで働き17歳の妻と生まれたての子を支える19歳は、この暮らしをまず肯定して生きていくしかない、のだと分かる。
誰からも祝福されなかったとしても、誰の耳にも届かなかったとしても、自分だけは自分を認めてやらなければ、潰れてしまいそうだから。
覚えがありすぎるんですよね。
私の場合は小説だったけれど、貧困の中で想像力の翼を広げることとは、自分なりの世界との交流であり、世界を変えることだった。
虚空に爪を立てようとするかのような、あえかな抵抗がラップになっていたし、それは文化なのだった。
それでも生きていくこと。
流れたミュージックは意外なほどdopeで、汚れた水面に沈んだままそれでも太陽を見上げるようだった。