そんな本はどこにもない

最近は、自分のための言葉を探すために本を読んでいる気がする。
前はただの暇つぶしだった。iPhoneの仕様の「今週は〇時間、画面を見ていました」という文面を見るたびバツが悪くて、画面を見る時間を減らすために読んでいた。
でも最近は、本のあらすじを見たり、中身をペラペラめくって「自分にとって心地いい文面があるかどうか」を判断して買っている気がする。
今日、本屋とカフェが併設されているお店に行った。そこにある全ての本にはカバーがかけられ、番号が振られている。また、表紙には本のあらすじが書いてある紙が挟まっていて、ビニールカバーがされている。本の題名と著者は伏せられ、気になったあらすじの本を購入するというシステムだ。
それにしても冊数が多いので、どの本にしようか迷っていたら、おすすめの探し方があったのでそれに習うことにした。本には1~1231の番号が振られているので、自分の誕生日の番号である本を買うというものだ。早速自分の誕生日の番号の本を探し出した。
他の本のあらすじが5~8行あるのに対し、その本のあらすじは1行しかなかった。不安だったが、もしかしたらめちゃくちゃ面白いかもしれないので期待を込めて買った。少し読んだが、元々は洋書らしく、翻訳された文章は少し読みにくい。しかし頑張って読むことにする。
他にも何かないか探していると、気になるあらすじを見つけた。
『果たして今自分は、「自分が自分であるってことを解っている人間」なのだろうか。』
…出だしから気になってしまう。あらすじは続く。
『若い頃にこの本に出会えていた人は、とてもラッキーだと思う。心から、思春期の少年少女に読んで欲しい。大人になってもきっと、たまに読みたくなる。私はこの本を、子供たちに「読んでごらん」と渡したい。そしてまた数年後、彼の考え方に触れたくなるときが訪れるだろう。
まるで教科書のように、読み継がれていってほしい物語。』
こういうのに私は弱い。きっと私がまだ、思春期の少年少女のようなモラトリアムを抱えているからだ。今の自分が納得するような、自分にとって都合の良い言葉を探している。本の中に希望を探している。自分の考えを肯定してくれるような言葉があれば良いと思ってる。これは不純なことなのかもしれない。
本を読むことで何かを学べるとしたら、それは偶然の巡り合わせであって然るべきだと思うからだ。自分から欲しい言葉を探しに行くことは、順序が逆なのでは?と思ってしまう。自分がどうあるべきで、どうしたいかの答えを「本」という無機物の他人に託してしまっているようで不安だ。読書に対する姿勢を見つけられずにいる。とりあえず、今日買った2冊はちゃんと読もう。