初恋は綺麗なままで

初めてバレンタインチョコをあげたのは、小学校3年生の時。相手は同じクラスの笹岡くん。今で言うところの蛇顔男子で、目が細くて色が白く、体の線もたよりなかったが、細い目の下で大きな黒目がくるくる動く様が可愛らしく、またスポーツが万能だったことから、女子の間で絶大な人気を誇っていた。冗談抜きでクラスの女子の半分は彼のことが好きだったと思う。
笹岡くんと私は、別に特別親しくもなければ仲が悪くもない、非常にどうでもいい関係だった。少しでも仲良くなりたい、お近づきになりたいと思っていたけれど、クラスの中心の女子たちが怖くてなかなか彼の方へ踏み出せなかった。そのくせ女子の方へは突っかかって行ったので、無駄な揉め事が起きたりした。
だからチョコも、「あげた」というよりは「ねじ込んだ」と言ったほうが正しい。
放課後のわずかな隙をついて彼のランドセルを開けるのは、非常に勇気がいった。
誰かに見つかったら恥ずかしい。本人に見つかったらもっと恥ずかしい。人のランドセルを開けるなんて、キモい奴だと思われる。嫌われる。あいつあんなにブスのくせに、笹岡のこと好きなのかよ、うわー!という男子の声が遠くに聞こえる気がする。
生来のネガティブが惜しみなく発揮され、私の心の中は大荒れ、誰もいない教室で何もしていない時からすでに泣きそうだったが、気づくと泣きそうになりながらも私は笹岡くんのランドセルを開けていた。
後にも先にも、あんな行動力を発揮できたことはない。気持ちはやめろと叫んでいるのに、体は止まらなかった。意地でもチョコを入れると心に決めていた。天パで、ニキビで、服もダサくて、背が高くてちょっとデブで、運動音痴のガリ勉。小学3年生の女子として一つもいいところのない私が、初めてなけなしの勇気を振り絞ったのが、20年前のあの暖かい2月14日だった。
ランドセルを開け、チョコをねじ込み、パチンと金具を戻し、ロッカーにしまい直したところで、教室の扉が開いた。
私は文字通り飛び上がらんばかりに驚き、笹岡くんのランドセルをとっさにロッカーに押し込み、振り返った。教室の入り口には、先ほど私が荷物を漁った、笹岡くん本人が立っていた。
「あ、うめきちさん」と、そんなようなことを彼は言った気がする。
「あ、うん」と、私は冷や汗だらだらで答えた気がする。
どんなやり取りをしたのか、はたまたしなかったのか、バレるかもしれないという恐怖に全身が支配されていて全く覚えていないが、彼はするりと私の横を通って押し込まれたランドセルを引きずり出し、それが漁られた形跡に違和感を感じることもなく、「じゃあ!」とさわやかに去っていったということだけは覚えている。
その後私は、気づかれなかった安堵と、もっと喋りたかったというせつなさをかみ殺し、涙目で家に帰った。
次の日、ドキドキしながら学校へ行ったが、笹岡くんからは特に何の反応もなかった。とても残念で悲しかったけど、一方で彼の周囲の男子からも全くからかわれなかったので、笹岡くんは私からチョコをもらったことを言いふらしたりしなかったんだ!と感動した。ますます好きだと思った。
ホワイトデーの訪れまでは少しドキドキしていたのだが、結局お返しなどはもらえず(誰にもあげていないようだった)、進級とともに彼は遠く離れた本州の最果てに転校してしまった。私の気持ちは伝わったのが伝わっていなかったのか、結局わからないままだった。
時は流れ、20歳になった私は、笹岡くんのことなどすっかり記憶の彼方に追いやり、思い出の詰まった地元も離れ、都会で華やかな学生生活を送っていた。
当時はmixi全盛期。現在の友人から過去の友人まで、様々な人に「マイミク申請」をして、しょうもない日記を書き散らしていた。
ある猛暑の日、大学をサボってクーラーの効いた自室でいつものようにパソコンをいじっていると、mixiにマイミク申請が来ていることを示す赤いマークが付いていることに気づいた。軽い気持ちでクリックすると、可愛い犬の写真。あだ名が「ささやん」。「ささ」のつく知り合いなんていたかなあ?と記憶をたどり、私は十数年ぶりに笹岡くんのことを思い出した。
果たしてそれは、笹岡くんのアカウントだった。
笹岡くんは今、私と同じ都会でアート関係の仕事をしているらしかった。私の地元の子はこの都会によく出てくるが、笹岡くんは本州の最果てに行ったと記憶しているので、よくこんな遠いところへ…と思った。私たちは何度かそのようなメッセージのやり取りをして、不意に笹岡くんがこう言った。
「たまたま○○さん(小学校の同級生)のアカウントからうめきちさん見つけて、ほんと懐かしいなと思った。せっかく同じ都会にいるんだし、一回飲みに行かない?」
一瞬で、私の心はあの8歳の、暖かい2月の日に舞い戻った。
笹岡くんに、声をかけて欲しかったこと。
気づかれたくないけど、気付いて欲しかったこと。
渾身の力を込めて作ったチョコの、不恰好だったこと。
ラッピングのリボンがピンクだったこと。
西日が私の上履きのえんじの学年色を照らしていたこと。
ランドセルの金具を開ける手が湿って、じっとりしていたこと。
「好き」という文字を書くことが恥ずかしすぎて、手紙を何枚もぐちゃぐちゃに丸めたこと。
8歳の私が、驚きのあまり目を見開いていた。
笹岡くんに、ついに声をかけてもらった。
笹岡くんが私のことを認識してくれていた。
すごく、すごく、すごく嬉しくて、初めて男の子に告白してOKをもらった時みたいにどきどきして、返事を送らないまま無駄にaikoを聞き、ネイルを塗ったりした。その1時間後私は笹岡くんにぜひ会いたい旨のメッセージを送り、とんとん拍子に話が進んで、1週間後に会うことになった。
1週間後。
自分が考えうる中で一番可愛い服を着て、一番張り切った化粧をし、髪を巻き、ネイルをし、私は待ち合わせ場所に立った。
笹岡くん、どんなにカッコよくなっているだろう。もともと細身で顔も小さかったし、つぶらな瞳が魅力的だった。アート関係ってことはおしゃれだろうし、どうしよう、私釣り合うかな。いやいやこれはただの再会だし、そんな深い意味はないし。そもそもものすごく太ってるかもしれないし、小汚い可能性だってあるし、あんまり期待したらダメだよね?うん、大丈夫、大丈夫よ私。
妄想だけは活発に、行き交う人を見つめ続けた私の前に、ついに笹岡くんが現れた。

この右側みたいな格好で。
初恋は、初恋のまま置いておいたほうがいいなと、そう思いました。