わたしはやっぱりSさんが好きだ、で... by まいこ | ShortNote

わたしはやっぱりSさんが好きだ、でもとても追いつけない。
今度はわたしが食事を担当します、と昨年発言した手前、後に引けないので初日の夜はわたしが用意することになった。1人分ならなんてことなかったのに、Sさんが待っていると思うだけでパニックになる。Sさんは笑いながらそれを見ている。おれは甘やかさない、という宣言通り、一切手を貸してくれない。でも美味しいと言って食べてくれたので、わたしは心底ほっとした。
羆猟師とフチという狩猟犬の本を貸したら、犬が飼いたくなったなあ、と言う。「わたしには狩猟犬は育てられないので、どちらかというと犬サイドになりたいですね」。そうしたら早速次の日、フチは先を歩くんだよ、と言って道を譲られてしまった。一歩踏み間違えたら真っ逆さまの断崖絶壁に、心許ない丸太の梯子がかかっている。ギクシャクとわたしは歩くので、フチの気持ちが手に取るようにわかるよ、と後ろからSさんが笑う。わたしは早々にフチを諦めた。どちらかというと、Sさんの方がフチですね、そうやって振り返って待ってるところが、すごくフチっぽいです、とわたしは褒めてみる。でも羆を撃ってもわたしには運べません。「頼りない主人だなあ、タヌキくらいなら運べるの?」「タヌキと、ウサギくらいなら…」やりがいないなあ、とまたSさんは笑う。
わたしはSさんに会ったら、ボルダリング4級を落とせるようになったことを言いたくて、早速伝えたら思いの外褒めてもらえた。ところが、登山中に膝を痛めたことによって、株価は大暴落である。あの、また山ついてきてくれますか?と言ったら、やだよテント持たされたくないもん、とあっさり撥ねつけられてしまい、わたしはすっかりしょげ返った。「ついてきてくれますか、じゃなくて、わたし行くけどなんなら一緒に来る?くらいじゃないとね」と言われてしまった。
違うんです、わたしだって頼るつもりなんかなくて、今回だって絶対大丈夫だと思ったから誘ったんですよ、結果は、あの、こんなことになってしまって、面目ない限りなんですけど…ごにょごにょ。
すごい落ち込んでるでしょう、と言われた。「冗談だったんだけどな、反応が面白いから」とSさんは言ったが、8割は本音だということがわたしにはわかる。なぜなら、わたしだって他人任せな人とは山に行けないからだ。
道中で一緒になったおじさんと、しばしおしゃべりをした。20年前はあの岩を登ったんだよ、と指された先が、とんでもない絶壁だったので私は恐れ慄いた。何ピッチくらいですか、とSさんが食いつく。16くらいかな、2日かけて登るんだよ。取り付きが悪くてね、川を渡るのが大変なんだ。
話を聞くうちに、Sさんの心が逸るのがわかる。でも、私は岩登りには興味がないみたいだ、ということがこれでよくわかった。あんな岩壁を登るなんて、考えられない。「エル・キャピタンにも行ったんだ、若い頃はね、でも今は、もう岩はやらないよ。ふつうにこうやってハイキングしてるくらいがいいんだ。」そのふつうのハイキングルートで既に何人も死んでますけどね、とわたしは思った。2人は、崖っぷちに立って対岸のせり出した壁を指さしながら、盛り上がっていた。よくそんなところに立てるな、と思いながら、わたしは壁側にぴったりと寄り添っていたので、ところどころ2人の話は聞こえなかった。
おじさんは、お腹も出た一見ふつうの中年だったが、逆にそれがとてもかっこよかった。別れた後、我々は興奮してその話をした。いろんなところに行って、ちゃんと生きて帰ってきて、そして中年太りして、のんびりハイキングしているところが最高にカッコいい。そうやってカッコいいと思うものが同じであることが嬉しい。おれもそうなりたい、とSさんは言った。「本の世界の人だね、でも実際に会うとぐっと現実味が出てくる」。わたしは、わたしはそこまではいいんだけど…エル・キャピタンね…でも岩壁にぶら下がって寝るのはやってみたいな、なんだかファンタジーの世界みたい、と呑気なことを言ってみる。
Sさんに、バリエーションを歩くには先が長いね、と何度も言われた。まずは、ポールに頼らずに15kgを担いで行動できること。コースタイムの7掛けで歩けること。ルートファインディングできること。高所でも冷静に足場を探せること。20kgのザックを担いで、10時間は動けること。先は長い、本当に。
でも、わたしはSさんより10年早く始めてるのだから、と自分を元気づけてみる。今はSさんには叶わないけど、まだ10年ある。「確かにそうですね、でも10年後には、おれももっと上達しているつもりだけどね」とあっけなく返された。わたしの元気をへし折らないでほしい。でも、わたしにはSさんの厳しさと優しさのバランスが、甘やかさないところが、とても安心する。犬が飼い主を選べるなら、わたしはSさんが理想だと思うのだ。犬だろうが馬だろうが、飼い主に大事なのはあらゆる意味でぶれないことだ、とわたしは思っている。停滞は迷いを生む。Sさんはちっとも止まらない、だからぶれない。だから安心する。
Sさんと一緒にいると、次々とやりたいことが明確になって、よし頑張ろうという気持ちになる。あまりに遠すぎて、少し悲しくなるけれど。