「特別扱いする」という普通

先日、乙武洋匡さんのツイートで知的障害のある男性が地域の役員に自分の障害について記載することを強要され、それを地域の住人に公開すると言われたことを苦に自殺した男性のニュース記事についての発言があった。
引用させていただくと
【自治会役員の言い分は「特別扱いできない」というもの。障害者にはいつもこの「特別扱い」や「優遇」といった言葉が向けられる。

もう少し“初期設定”の違いに目を向けられる社会であってほしいと切に願う。】
話を進めるうえでこれに追加して画像を・・・といいたいのだが面倒だったので文章にしてみる
【身長の大きな子、中くらいの子、小さい子がいる。目の前にフェンスがあり大きな子は踏み台一個でフェンスの向こう側を見ることができるがそれ以外の子は一個では足りない。
この時、全員に一個の踏み台を渡すのが平等
大きい子以外もフェンスの向こうを見れるように余分に踏み台を渡すのが公平 
である】
本論を進めよう。初期設定、平等と公平の違いでは身長を例にしているが別にその人の家族の経済状況、家庭環境、運動への適応でもいい。
この初期設定は埋められるものもあれば埋められないものもある、この国は資本主義社会で、人間にそれぞれのパーソナリティがあるのだから経済環境、家庭環境などのものは差を埋めがたいものである。
この埋められるかできないかの違いは、下の公平平等の話を使うのならば「できれば公平にしたいがそれは持てるものから反感を買うし、そもそも公平にするのが極めて困難である」かどうかの違いだろう。平等にするのが最大限の助けになるならばこれは差を埋められないものであるだろう。
今回は障害を持った人について話したいので、初期設定=知的、肉体的なものの有無 と定義する。さて、この初期設定の差は埋めがたい差であるだろうか?
私の中学時代の障害を持った人との関わりは、同級生に一人、私は給食委員長だったので配膳室の掃除をしていたが、終わり次第近くの教室の通級学級に顔を出していて、その時そこにいた後輩一人だけある。
どちらものっそりとした動きではあったが、手足はある、動かせると、脳機能に程度は分からないが障害があった。
その時点で私は、少なくとも「かわいそう」と思ったことはない。ただ自分より年下を見るような気分であったのは確かだ。
そして、大学に入って特別支援学校で二日間の実習をした。
その時私が行ったクラスの子は高3の肢体不自由者の子だった。就職活動で忙しく動き回っていると聞いた。
この時食事は他の学年、クラスと合同であったのだが、そこに移動は車いす、ほぼ寝たきりで食事もスプーンを動かすのが精いっぱいという子がいた。
偶然その子の前に座っていた私は、「器を変えてください」「食べやすく潰してください」と言ってくるその子の要望に応え、食事を介助した。その子のとなりには私の同級生がいたがそいつはガン無視していた。
正直なことを言うと私は、自分が食事している時誰かに何か言われたり邪魔されるのをひどく嫌う人間だ。
なので心の中で面倒だ、と思う自分がいた。
私はそれは恥ずかしいことだと思っていない。事実面倒なのだ。
親の介護で食べさせたことがある、という方にはご理解いただけるとは思うが、あれはひたすらに面倒で、じれったい。
ああ、本当に面倒だった。しかし私はそれを押しつぶした。
今になって考えてみれば、私はいつでも好きなタイミングで好きなものを食べられる。
しかしその子は介助がなければ食べられない、しかも寝た状態で食べるので食べ物のサイズも限られる。
そして私もその子も腹が減っている。なのだから手伝いをしよう。
自分だけパクパク食べてその子はできない。なんたる理不尽か。その子と私になんの違いがあって、そんな理不尽を押し付けるのか。
差などない。
なのだから私は多少食事を集中してとれないという損をする、だが介助して「特別扱い」するのは当たり前、「普通」ではないか。
特別扱いを求める側にはそれだけの理由がある。あきらめきれないことにその扱いを受けられないのはただの理不尽に感じるのだ。
大学4年の教育実習の時、私は今でも罹患している不眠、鬱の症状に悩まされていた。その当時はいまより酷く、13時からのゼミへ、本当に命からがらの思いで這い出す程度に18時間、つまり昼寝て夜起きるとんでもな昼夜逆転を起こしていた。
そんな状況で朝8時に実習先へ行くなど不可能であるし、病のせいで進路も不明であったがどうにか4年で卒業したかったのでなんらかの措置が受けられないかと実習先の打ち合わせの時に相談した(これの約束の時間は17時だったがやはり死ぬ思いで這い出した)
具体的な提案などはできなかった、そんなことを考える余裕もなかった。
そして実習先の先生がおっしゃってくださいました、「特別扱いはできない」と。
この言葉を聞いた時点で私はひどく憔悴し、反論する気力もなかったので、黙って受け入れ、そしてゼミの先生に「無理です、いけません今年の卒業は諦めます」と告げた。
今にして思えば、何が補助できて何が補助できないのかくらいは提言してくれよ、とも思う。
「特別扱いはできない、こちらからは何もしない」ではする気がないとしか思えないではないか。
クソみたいな余談だが、死にそうな体でなんとかゼミの単位は先生と相談してあったので取らせてもらい(卒論はゼミ配属の時点で全員でここまでやってそれを卒論にしようと決めていたのでなんとかなった、私自身はほとんど貢献できていないので本当に申し訳なく感じる)、残っていた必修も開始時刻が16:30からだったので鬱の脳みそをフル稼働させなんとかとったものの、この症状が3年の後期から発症していたため残っていた教養科目があり、それがあろうことかインフルエンザで出られなかった回から50点分出題され、完全に楽単だったはずが落としてしまった。
つまり私は真面目な意味でも留年してしまったのだ。
さて、一般的な議論をしよう。
世俗ではこういった普通の特別扱いを、ただの特別扱いとするフシがある。
そしてそれはできないという。
もし最初の案件の自殺した男性が「特別扱いをしてくれ」といったのなら、「俺だってこういうことは苦手だ」「通例だから」などというのだろう。
こうした人間は都合のいい時は「私とあなたはつながっています、あなたを助けます」と宣い、「僕はあなたを見下してません」といいながら平然と踏みにじりをしてくるのだ。
少し本題から離れるが私は前回の話のネタにした作品の同一ライターが書いた作品が好きではない。(CLANN●Dというアニメだ)
その作品は同じ会社の前ライターが書いた作風にあわせ、最後に死に別れするというようになっている。
前ライターの作品は私は好きだがこの作品のライターはきらいだ。理由ははっきりしている。
理不尽でどうしようもなくて死に別れしてしまうのは感動的だが、ただひたすら何もせず流されるままにしてたら死に別れるものに感動なんかできるはずがないからだ。
この理屈をここまでの議論にあてはめてみよう。
障害というのはえてして理不尽だ。自業自得の人もいるかもしれないがそれでも障害を持ち誰かに助けてもらえなければ生活できない状況になるだなんてだれも想像しない。
世の中にはエセ平等主義者、都合のいいときだけ人類皆平等を宣うくそったれがはびこっている。
だから私はこういうのだ。
私はあなたがたと同じ差別主義者であると。
私には障害を持った人に対してある種の優越を抱いているのだと。
これも特別支援学校で思ったことなのだが、彼らは必ず何かしてもらったらお礼を言うように教育されている。私が食事の介助した子も私が手伝うたびに、ありがとうございます、といっていた。
人から感謝されるのは基本的に気持ちのいいことだ。
だから私は彼らに助けが必要なら、「公平」のレベルまでなら援助したいと思う。
私にとってそういった「特別扱い」は普通だ。