世界一のポテトサラダについて

(※フィクション・創作です。)
長年連れ添った妻が、ついに私のことを忘れてしまった。
私が言うのもなんだが、少なくとも結婚してからの妻は、家族のために尽くした人生だ。定年後も家のことは何ひとつできない私だったが、妻が少しずつ調子を崩し始めてからは、拙いやり方で自ら掃除洗濯をやるようになった。しかし料理だけは駄目だった。もう少し努力を重ねれば、あるいは上達したかもしれない。しかし失敗作を笑い飛ばしてくれる相手もいない。味覚も曖昧になってしまったのか、妻は酷い出来の料理もただ黙々と食べた。いつぞやは傷みかけた卵や生煮えの肉すら食べてしまった。これ以上悲惨なことになる前にと、私は早々に投げ出し、レトルトや駅前の弁当で済ませるようになった。
そんな暮らしぶりを見かねたのか、週に何度か、隣町に住む娘夫婦が孫たちも連れて食事の世話をしに来てくれるようになった。娘は外で働きながら家のことも子どもたちの世話もよくやっている。そのうえ私たちの世話まで、申し訳ない。だがしかし、そんな娘に対して絶対にこんなことを口には出せないが、料理の腕は、かつての妻には到底及ばないと思う。
主菜以外はスーパーの惣菜がならぶ食卓を囲みながら、ある日ふと「かあさんのポテトサラダはうまかったな…」と呟いたら娘も、「うんうん、あれねー!そうだねー」と言う。妻はもう、それが自分の得意料理のことだとすら認識していない。曖昧ににこにこと微笑んでいる。娘が「お惣菜のやつと、ちょっと違うんだよねー。お母さんのポテトサラダ」と話しかけるが、「そうなのねぇ」と言ったきりだった。「元気なうちに、ちゃんときいとけばよかったな…」娘は、妻に聞こえるか聞こえないかという声で寂しげに呟いた。
妻本人しか知らない、世界一うまいポテトサラダのレシピ。もう知る術なしか。
私は無性に寂しくなり、茶碗の残りを押し込むようにごはんを食べた。
「うまかった。ごちそうさま」
あんなうまいものの作り方、なんで秘密にしたまま全部忘れちゃったんだよ。もう一生わからんじゃないか。
失ったものの大きさが今さらながら胸に迫って、居た堪れなくなり、娘を見送りがてら、妻と食後の散歩へ出た。
早めの夕食だったので、まだ時刻は19時前である。
ぐるりと町内を歩いた後、馴染みのスーパーへ寄る。5年くらい前にはまだ、野菜コーナーを通ればあれやこれやと新鮮な野菜を見極めてカゴに放り込んでいた妻は、今やもう特売品にも旬の野菜にも見向きもしない。ただぼんやりと、でもにこにこと、まるで赤ん坊のような目をして私についてくるだけだ。
惣菜コーナーへやって来る。明日は娘たちが来ない日だから、今夜のうちに少し安くなったものを買っておこう。
私にとっては無機質にも見える、お惣菜のトレイが整然とならぶ。きんぴらごぼう、ほうれん草の白あえ、ポテトサラダがならんでいる。
「ポテトサラダ、あれにするか?
あれあんまり美味しくないよなぁ。母さん、ちょっと教えてくれるか。」
そんなふうに、妻に話しかけてみる。
「美味しくないの」と妻が言う。ただのおうむ返しなのか、聞き返したのか、感情のわからない透明な目をしている。ああもう本当に、何も、何ひとつ、あの頃には戻らないんだな。
ふと気づくと私たちの隣に、幼児を連れた母親が立っている。歳は娘と同じか少し若いくらいだろうか。ポテトサラダを手に取って見ている。
それはきっと、私の知らない、私が家庭を顧みる間もなく働いていた頃の、妻と娘の姿だった。そう思うと、なぜか後悔とも怒りとも悲しみともつかない感情が喉元まで迫り上がってくる。自分が惨めだった。
私は、その母親に何かを言った。
言ったような気がする。それが記憶の中でのことなのか、たった今この場での出来事なのか、自分でもわからなかった。
「母親ならポテトサラダぐらい作ったらどうだ」
間違いなく私自身の声だった。
その母親の横顔がサッと青ざめたのが見えて、我に帰る。
すると次の瞬間、それまで赤ん坊のように所在なく立っていた妻が、驚くような力強さで私の腕を掴み、引っ張った。私は妻に手を引かれるまま、足早にその場を立ち去った。
「おいどうした?」
問いかけにも答えなかった。横顔は、先ほどの母親と同じように青ざめているようにも、震えているようにも見えた。それ以上、何もかける言葉がなかった。
結局何も買わぬままスーパーを後にした私たちは、夜道を無言で歩く。
途中でふと足を止めた妻の顔を恐る恐る覗き込むと、そこにはもう、感情が透明になってしまったいつもの妻がいるだけだった。
「ごめん、ごめんな。」
答えはなかった。
「今までずっとな」と、胸の中で付け加えた。自分が惨めだった。
(了)
少し前にSNSで話題になっていたポテサラ問題を見て、そのとき、ついそんなことを言ってしまったおじいちゃん側の背景について思いを巡らせ、想像してみたものです。勝手な想像です。実際はもっと単純でもっと後味の悪い話かもしれない。でもどんなことにもいくつかの側面がある。そして、何か少しのきっかけでわかり合えるかもしれないという希望を込めて。
本当は主人公が自分でポテトサラダ作りに挑戦してその大変さを認識し、ごめんなさい…となるのが「スカッと!」なのかもしれないけど、現実はたぶんこんなもん。