「メロディが尽きないのはナゼ」。

非テレビっ子で浮世離れした生活を送っている私が世間のトレンド情報をチェックする主な手段である「ZIP」に、こないだ米津玄師が出てましてね。
それまで私が知っていた米津玄師の情報と言えば「レモン」「パプリカ」「馬と鹿」しかありませんでした。しかし、彼のヴィジュアルが情報として加わったことで、私はこう思ったのです。
「この人、髪染めて目ぇ隠して尖ったヴィジュアルのくせに、なんてキャッチーなメロディを作るんだ!」
なんかヴィジュアルが尖った人に限ってわかりやすいメロディ作ったりするよね。昔でいうとLUNA SEAとかヴィジュアル系の人たちがこぞって明解なメロディ作ってたね。
私の言う「キャッチー」「明解」は、褒め言葉です。
なぜなら……
以下、私が2001年7月に個人ホームページで書いた文を引用します。
言い回しがイタいですが、18年前、私25歳のときに書いたやつだということを鑑みて……も、やっぱイタいわ。ごめん。
引用ここから↓

 有史以来、人間ちゅーのは(註・人間というのは)音楽を作り続けていますわね。 そう、「音楽」と「宗教」のない文化はないのです。 人間のあるところ、必ず音楽があります。

 そんなに長いこと作り続けられていながら、なぜ「メロディ」は尽きないのでしょう。

 考えてもみようよ。 「音」ってば、ドレミファソラシドとその間の12コしかないんだよ。 オクターブ越えたらいっぱいあるけど、人間の可聴範囲に「音」はいくつあるよ。 人間はその限られた音を組み合わせて「メロディ(主旋律)」を生み出しているのだ。 しかも、主旋律の音域があんまりにも高すぎたり低すぎたりすると違和感あるだろうから、音の組み合わせに使える音はもっと限られてくるはずだ。

 半音…すなわち白鍵と黒鍵(たとえば「ド」と「ド#」)の間にも、音はあるといえばある。 でも多分、意図的に使ったりはしないはずだ。 どっか奥地の民族だったらよく知らないけど、現在全世界的に用いられている五線譜では、半音より細かい音は表現できないからね。

 …表現できたらゴメン。 私の音楽理論ってば、高校で習うギリギリあたりだから、ハンパなのよ。 本気で学んでみたらいろんなことがわかって楽しいかもしらんけどね。

 さてさて。

 そんなだから、いつか「メロディ」っていうのは作られ尽くされるんではないかと思ったんですよ。 ここでいう主旋律っていうのを単旋律(一人のクチで歌えるような、一本のメロディ)であると仮定してだね。 使える音が限られているんだから、組み合わせの数にも限りがあるはずである。 何千億通りあるかはわかんないけど、とにかく限りはあるはず。 しかも、歌う人の声が出る音域、そのメロディの後ろにあるコード、譜割り…いろんなモノの制限を受けるだろう。 そう、メロディはもっと限られて来るのだ。

 だのに、有史以来作り続けられている「メロディ」は、まだ尽きていない。 本当に限りはあるんでしょうか? 物理的には有限なのに、なんか無限っぽい勢いを感じるんですよね。 これだから音楽ってスゴい。

 コンピュータを何台か用意してさ、こっからここまで、って「音域」を指定してやってさ。 全音符から十六分音符まで、全休符から十六分休符まで、しかも十六分音符何個分…とかって制限をつけて、ありとあらゆる組み合わせを試してみたらどうなるんだろう。 いつの日か、現存するヒット曲と同じメロディが奏でられるんだろうか?

 ほら、アレと同じよ。 四百匹の猿が四百台のタイプライターを四百年叩き続けると、そのうちの一匹がシェイクスピアと全く同じ作品を書くだろう、っていう例え。(S・キングの小説に、こんな例えが出てきました。)

 この「メロディ」の場合も、こんな確率なんだろうかねぇ。

 いずれにせよ、限りはあるんだろうぜ。 でも、限りなく「無限」に近い。 そんな感じがする。
↑引用ここまで
というわけなので、2019年になっても「キャッチーな良いメロディ」を作れる人は希少だと思ってます。
歌詞?シラネ。