「洗浄してあげればずっと書けますよ、万年筆なんだから」

今から30年以上前の学生の頃、Sheaffer の No Nonsense という二重否定の名前の万年筆を使い始めた。「とても」安く、1,000円しなかったと思う。軸はプラスチックだし、カートリッジ式で実用的、まさに「クソ真面目、質実剛健」という No Nonsense という名は体を表すペンだった。
私は筆圧が高く、筆記具が当たる利き手の中指はペンだこができるほどだったが、当時はインターネットはもちろんワープロもなく、なんでも手書きだったから仕方なかった。
で、若者だったから手紙をやたらに書いていたので、書きやすい万年筆を探していた。
その頃使っていたのは、これまた廉価版の Pelikan だった。小学校の友だちの誕生日プレゼントのお返しにもらったものだったと思う。みかん色のプラスチックの軸、インクは Koenigs Blau (Royal Blue すなわち Sheaffer でいうところの Blue)という明るい群青色だった。愛用しすぎてプラスチックの軸にひびが入り、キャップ先端の輪っか状の留め金でようよう固定されていたが、ニブ(ペン先の金属)が開いてきてこれ以上使い続けられないということで、万年筆を探していたのだ。
ちょうど家の暮しの手帖(2世紀76号、1982年2月)に、「<ノン・ナンセンス>という万年筆」という記事があり、そこで紹介されていたので、おおこれでいいわと伊東屋に買いに行った。もちろんインクは Blue(Royal Blue)で。これが本当に笑っちゃうくらいスルスル書ける。明るい Blue のインク色が派手なので、落ち着いた Blue Black と Jet Black も買い足し、これでTPO問わず書けることになった。しかしほどなく No Nonsense が廃番になったことを知る。こんなお買い得な万年筆が販売中止になるなんて。お買い得だから販売中止になったのか。持っている3本をたいせつに使い続けようと誓った。
それから10数年たち、インターネットもすっかり普及したある日、ネット通販に No Nonsense のデッドストックが1本売りに出ていたので、これ幸いと会社置き用に買い足した。仕事で直筆の手紙を書くこともあるからだ。
しかしその一番新しいはずの1本がある日インクが出なくなった。インク切れではなくインク詰まりのようだ。伊東屋にかけ込むと、ペン先の汚れかもしれぬということで水に浸けて洗浄するようにと言われた。(この辺の事は去年の投稿にも書いた) 
水を張ったガラスの器の中に沈んだペン先からは煙のようにインクが流れ出し底に溜まっていく。美しい色だった。水けをきってインクカートリッジをはめ直すと、確かにインクが出てきた。しかししばらく書くうちにやはりかすれて、また書けなくなってしまった。「これは分解修理が必要だが、代理店もなく保証もできない、高価なものではないから修理代の方が高くつくだろう」と文具売り場で言われてしょ気ていた。
そんなある日、「ペンクリニック」なるサービスがあることを知った。日本輸入筆記具協会やメーカーの職人さんが、全国の文具店を回って無料で(!)万年筆の調整をしてくれるという。すぐ近くで開かれる会場にノコノコ行ってみた。すると「今日の分の受付はもう終りました」と同情半ば呆れ半ばで言われた。どうも昼過ぎまでにはその日の受付が終るのが通例らしい。しかも高価な万年筆ばかりだ。この日は尻尾を巻いて逃げ出した。
私の No Nonsense なんて吹けば飛ぶよなペン先だ。とはいえ、愛用していることに変りはない。次のペンクリニックの機会を待った。
ある週末、ぽっかり時間が空いたので勇気を出してペンクリニックが開かれる日本橋の丸善に出かけた。昼過ぎで(電話予約はできない)16時過ぎの受付と言われた。今日しかない、と思ってドキドキしながら、献血を断られたりしながら待っていた。
地下の万年筆売り場の片隅にしつらえられた対面式のテーブルには、よく眼鏡屋さんの店頭で見かける超音波式洗浄機やふきん、大きめのスポイトや綿棒などが置いてあり、小柄な女性がニコニコ笑顔で座っている。あまり行ったことないけどスーパーの占いコーナーみたいな感じだ。
「全然高価じゃなくて調整してもらうのが恥ずかしいのですが、愛着があるので、直る見込みがあるかどうかだけでも診断していただければと思いまして…」とおずおず申し出ると「かまいませんよ、万年筆は万年筆ですから」と涼しい顔でやおらペン先を水につけて、軸のお尻からスポイトで空気を送り込んだ。
「うーん、空気が通らない、ということは、やはり詰まっている可能性が高いですね」とおっしゃる。ああそうなのか、と思うと、今度は女性はゴム手袋をはめて、ウンウン力いっぱいニブをペン先から取り外そうとし始めた。
は、外れるのソレ? 時おり手首や指をブラブラさせて整理運動をしながら、なおもウンウンやっているうちに、果たしてニブはペン先から外れた。内側を見てビックリ、「ゴミやホコリがべったりこびりついていますね、これではインクは出ないはずです」とにっこり叱られた。よく洗濯機の洗濯漕の裏側に汚れがびっしり! みたいなCMを見るがまさにあれ。「この1本は一番新しく買った1本で、この間書けなくなって洗浄してみたんですけど…」「新しくてもしばらく書かないでいると汚れはつきます。そんなについていないうちに洗浄しなければ汚れは落ちにくくなります。もう汚れがこびりついたのでしょうね」
よっぽど、トホホ。という顔をしていたのだろう「洗浄してあげればずっと書けますよ、万年筆なんだから」と、金属の小さなスクレーパーやブラシで汚れをこそげ落としつつ慰めてくれた。
念入りに掃除してまたウンウンいいながらニブをねじ込むと「さあ、もうこれで書けるはずです」。
…かっ書けた!! 本当に書ける書ける! この間の洗浄後の弱弱しい復活とは比較にならぬ。本当に、心の底からお礼を言った。帰宅して前から持っていた3本もすぐペン先を洗浄したのは言うまでもありません。
「私が責任を持って直しました」とある受付票には「潔」一文字のハンコが押されていた。私は何も知らなかったが、彼女こそは伝説的ペンドクター 川口明宏氏の弟子で、今や全国を飛び回るペンドクター 宍倉潔子氏だった。そんなカリスマ職人さんに、ウンウン作業させてしまって本当にすみませんでした、そしてありがとうございます。何度でもお礼を言います。
日本輸入筆記具具協会さんのウェブサイトはこちらです→ http://www.jipa-pen.jp/fair.html