和をもって尊しとなす。 - 迷子話術と譲歩戦の果てに辿り着く忍耐愛 -

相手の気持ちを尊重することは、実に遠回りな思考様式であり行動様式だ。
例えばAは図書館へ行きたいと考える。
しかし一日をBと過ごすことが先約として決まっており、Bはカラオケに行きたいと考えているパターンが多く、今日も恐らくそう考えているだろうと推定する。
ところが実は、今日のBは図書館に行きたいと考えていて、しかしいつもBとAはカラオケで休日を過ごしているから、BはAが今日もカラオケで過ごすつもりだろうと推定する。
そこでBは、いくつかの選択肢を用意し、その中に図書館を含めてAに選択させることを考え、Aに提案する。
Aは、いつもカラオケに行くワンパターンな休日に、Bが負い目を感じているためだと気を回し、不服はないことを伝えるため、Aはあえてカラオケを選択する。
ただしAは、帰りに少し図書館にも立ち寄りたい旨を補足することで、図書館への用事も手早く片付けようと考えた。
Bの図書館への用事は短時間で済むものではないため、図書館へ行くならば今日はカラオケを断念して図書館で過ごそうと提案する。
Aは、用もないのに図書館へ付き合わされるBが、怒って極論を提案しているのではないかと気を回し、やはり図書館には立ち寄らなくて良いので、一日カラオケで過ごそうと譲歩する。
この辺でBは若干キレてくる。
いいから図書館へ行きましょうよとBが半ギレで提案すると、もうAは完全に、Bは自分が図書館へ立ち寄りたかったことにキレたのだと思い違う。
絶対カラオケに行きたい、カラオケ以外絶対行かないと言い出し、口論勃発。
疑心暗鬼も大概にしろと外野からツッコミを入れたくなる。
アホらしいので、我儘な方が余程助かるということに外野は既に気付いているのだが、AとBの探り合いは明日もそして明後日も延々繰り返される。
少なくとも日本では、こうした不毛な気遣い合いが日常的に蔓延して、発生するストレスは全て愛の力によってどうにか許容され、膨大なエネルギーが費やされているのだ。
それでも、直球を避けた奥床しい振る舞いは、美徳とされ日本の風俗となっている。
アラブ人が人の嫁を褒めないように、イギリス人がお茶の作法を重んじるように、これに割く労力を惜しんではならない。
それが日本人であるということだからだ。
異文化圏でこのような場合にどう対処しているかわからないが、恐らくここまで気を回す前に互いの欲求を肯定的に表明して、合意点を打診するのではないか。
しかし日本ではこうした迂回は正当であって、特に古風な人柄には冗談抜きで浸透している。
自分の考え、自分の欲求は、言えないのが良い人柄なのである。
異文化の方々が日本人のこのような堂々巡りをもし目にしたら、あいつら何やってんだアホか?などと思わずに、気長に暖かい目で見守りつつ、可能なら口論勃発が回避されるよう、ほんの少し手を貸してやってほしかったりする。
そうやって関係ない他人を巻き込み、手を貸してもらってやっと合理性が成立するのが、日本人の良いところである。
AとBの間には、果て無き譲り合いに決着が付き行動が伴うまで、まんじりともせぬ睨み合いが続くだろう。
その結果、二人とも図書館へ行きたかったのにスタバへ行ったとしても、また明日という日がある。
愛情確認は目的達成より尊い。

余談だが、AとBの意思に反したCの選択肢に、始めから意図的に図書館が含まれていないというパターンも存在する。
この特殊な心理技法については別の機会に触れたいが、信長が多用したという説もある。