おうちに帰りたい

ずいぶん前のことです。
仕事で、朝から一日小さい可愛い人の付き添いをしました。
その人は、大金持ちのお嬢さん。
家は千坪もあって、女中さんもいます。
テレビでしか見たことのないようなお金持ちのおうちなのです。
お父様は大学教授。
周囲からは「先生」としか呼ばれません。
そんなおうちで育ったお嬢様です。
最初、わたしが上司からアドバイスをもらっていたのは
・わたしから話しかけてはいけない
・なれなれしく肌に触れてはいけない
・子ども言葉を使ってはいけない 敬語のみ 
・常にお嬢様の一歩後ろを歩く
でした。
「うまくいきますように。失敗をしませんように。無事に一日を過ごせますように。」
と十字を切って、いざ職場の扉を開きました。
さあ、一日の始まり。
お嬢様はまさにお嬢様でした。
テレビで見るような嬢様。
愛らしいしぐさ。
笑う時には肩をすぼめます。
わたしに話しかけてはくれないけれど、そばにいていやな顔もしません。
まあ、嫌われてはいないみたいで安心しました。
お昼は大きく元気な声で「いただきます♪」を言い、お行儀よく、おいしそうに食べてくれました。
ソファに座っていると、ふいに窓の外を見て
「もう、何ヶ月もおうちに帰ってないの。お母さんが心配してる。もう帰らなきゃ」
と言いました。
それから急に荷物をまとめ、リュックを背負い、玄関に行こうとしました。
「家の鍵は持ってますか?帰っても、今は誰もいないんですよ。鍵を持って入れば帰って待っていてもいいんでしょうけど。」
と言うと、
「鍵は持ってない。仕方ないわね。待ってましょう。」
と言って、またソファに座りました。
でも、またほんの5分もすると、
「福岡のおうちに帰る。お母さんが心配してる。」
と言って、リュックを背負います。
そんなことを2、3回繰り返していると、
「もう我慢できない!」
と、玄関に行き素早く靴を履き、出て行ってしまいました。
わたしはあわてて靴をはいて、あとを追いました。
お嬢さんは、外に出たからといって、帰る道はわかりません。
結局テクテク当てどもなく歩くだけ。
一歩後ろから着いてくるわたしに
「福岡はどっち?」
と聞くので、東の方を指して
「あっちですよ。」
と言いました。
指さす方向には空き地があり、そこで行き止まり。
空地まで行くと、その崖下に隣町の街並みが見えました。
しばらく見ていると、お嬢さんは
「この先には行けないの?」
と聞いてきたので
「はい。行き止まりなんですよ。戻りましょうか。」
と促しました。
そして戻り、部屋に入り、ソファに座りました。
けれど、また10分もしないうちに、立ち上がり、リュックを背負い、玄関から出ていきます。
そんなことを3回繰り返した時に、ふいに道端で立ち止まり、しょんぼり首をうなだれ、悲しそうな表情で
「おうちに帰りたい」
と言いました。
その顔の切ないこと。
胸が痛みました。
そうやって5、6回外に出ることを繰り返していると、
「もうお部屋に帰ろうか」
と、お嬢さんが言い、もう
「おうちに帰りたい」
とは言いませんでした。
迎えに来るまで待っていよう
と思ったようでした。
夕方5時にわたしは帰りました。
お嬢さんには
「わたしは帰って、子ども達3人にごはんを食べさせてきます」
と言いました。
お嬢さんは、
「3人もいるの!?お母さんがいなくてさびしく待っているんじゃない?」
とびっくりして、早く帰ってあげて、と言ってくれました。
わたしのその日の仕事はこれで終わり。
お嬢さんは85歳。
認知症です。
ご家族は近い将来お嬢さんをグループホームに預けることに決めたそうです。
お母さんはとっくの昔に天国にいって、いません。
それでも、「お母さんのとこに帰る。おうちに帰りたい」
と繰り返していたお嬢さん。
この少し前、わたしは保育サポートをしていて、小さい子ども達を見ていたのだけど、その子たちとこのお嬢さんは全く同じでした。
ただ、違うのは泣かないところだけ。
どんなに年齢を重ねても、小さい頃の気持ちはそのままなのだなあ と、ひしひしと感じた一日でした。
確かに、わたしも時々
「お母さんに会いたい」
って思うからね。
この気持ちは生涯ずうっと持っているんだろうな。