特別な孫

 私は祖母にとって特別な孫である。
孫というにはずいぶんと大きいもう35歳の私の祖母は94歳である。祖母が60歳のときに私は産まれた。「この子が成人するまで生きていられないかもしれない」と言いながら20歳の節目を無事に迎えれば「早くいい人見つけてつれてきなさい」と言われたものだ。
 言われたものだ、という過去形なのは最近では年齢的なこともあり多くのことを忘れている。ベッドの上で寝ていることの方が多い祖母は私の知る今までの祖母とは違う。90歳を過ぎても元気に自転車を乗り回し山へ出掛けて鎌を振り回し新鮮な野菜を取ってくる。腰が曲がって「恥ずかしい」なんて言うけども来る日も来る日も農作業を休まなかった立派な体なのだ。体痛いとこない?と聞けば「ばぁちゃんは大丈夫だよ」と言う。本当に働き者で素晴らしい自慢の祖母なのだ。
 調子がよければ私のこともわかるが、もうほとんど忘れていると言っていいだろう。「米があるから持っていきな」といつものように言う。よくわからないけど来てくれた人に何か持たせるという祖母心だと思う。
 手を握って「たくさんもらったからね、ありがとう」た伝えると涙がこぼれてくる。忘れられたことが悲しいのではない。あとどれくらい生きていてくれるか、お別れはできるだけ先に、まだこのままでいてほしいという私のさみしいという感情からだ。
 
 なぜ特別な孫であるか。
私は生後2か月のときに母が入院することになった。そのときに預けられていたのである。
30年ぶりの赤ちゃん、主でこの命を預かる責任、時代が変わって育児も変わった。真冬の1月、寒いその土地で石油ストーブを焚き生後2ヶ月の小さな赤ちゃんを祖父母で代わる代わる面倒をみたという。
 あまりに小さなその体を祖父は踏みそうになったんだと祖母は言う。きっと相当驚いて焦って踏まれなくてよかったと思った体験だったのだろう。
 母が退院し迎えに来て私を連れていくとき祖母はわんわん泣いたと言う。母と姉が言うには「ばぁちゃんがあんなに泣いたのは見たことない」とのことだった。よほど大切に育てて私の命を守ってくれたのだろう。
 
 ことあるごとに祖母は様子を見に来てくれたようで60歳を過ぎて電車で3時間以上もかかる道のりを通っていたそうだ。私の住む町に来て、しまむらで服を買うのも楽しみだったらしい。
赤ちゃん用のくまさんの毛布も買ってもらい、いまでもそれは実家にある。これだけは捨てられない大切な毛布だ。
 祖母の住む田舎へ行けば「これ食べな」「お小遣いあげる」とさんざん甘やかしてもらった。他のどの孫より可愛がってもらいそれを私は子どもながらによく分かっていた。母が厳しかった分その甘やかしは心の土台の大きな部分を占めている。
 
 私は特別な孫、ということは強みである。
ちやほやされたり大切にされたり愛されたりして自分の中の強さとか安定感とか充足感を積み重ねてきた。私は平凡な女だが自己肯定感はしっかりある。それは挫けてしまいそうになってもなんとかやっていくために必要なものである。今までなんとかやってこれたのは今までたくさんの人に愛情をもらったからであると考えている。
  
 本来なら私も子どもを産んで祖母や母、周りの人が惜しみ無く注いでくれた愛情をまた次世代に注ぐべきなのだろうが、できないだろう。子どもを望んだときにいつでも授かれるものではないし運や縁もなかったということにしておいてほしい。
 
 その代わり愛すべき人や愛する人を精一杯愛するよ。惜しみ無く愛するよ。
 祖母の全てを忘れて僅かなものしか残っていないその世界で、「あの子はどうしてる?」と言われたとき私の大切な心というものは震えて泣いた。
あの頃の必死で育てた赤ちゃんの記憶らしい。自分の娘が亡くなったあとはしばらく落ち込んで、少し記憶がかすれた頃に「娘は来てないけど元気にしてるのか?」と聞いて、今では楽しく輝いていた時間にいる。私には記憶がないからどうか一緒にあの時間を旅させてくれないか。きっと100mlのミルクを1時間かけて飲んでいたと思う。か弱くて小さくてミルクを飲まない赤ちゃんだったと聞いているから。
 当時の写真は1枚もない。写真を撮る暇もなく皆必死にこの命と向き合っていたのだろう。
 しわしわになったその手を握り「また来るね」といつも言う。また来るねをいつまでも言わせてほしい。それが孫からのわがまま。たくさん大切にしてくれてありがとうといつだって言うけども何度言っても足りないくらい今も離れていても大きな愛をもらっているのだ。