国旗の話

結婚を機に、田舎県から東京都に引越しをし、四月の佳き日を選び入籍を済ませた。
当時「専業主婦」という単語に憧れていた。
しかし人間は我儘な生き物である。
現実にその夢が叶うと、子供がいるわけでもなければ病気でもないのに、午前中は家でYoutubeを楽しみ、昼過ぎから昼ドラを観ては大笑いし、夕刻になってやっと家事をするという、怠惰な生活に飽き始めていた。
結局は、二ヶ月足らずの専業主婦生活に幕を下ろし、仕事を探した。
私の仕事を探す基準は、特に無い。
今迄の職歴を活かせれば--------程度の気持ちと、都内は田舎県よりも時給が高いという事実に慄きながら、二日間ほど根を詰め、仕事を探した。
その中から、勤務条件等に合う仕事を一件ピックアップし、応募するに至った。
後に聞いた話しによると、欠員募集であったにも関わらず、応募総数・百五十余人、採用枠一名の狭き門であったと聞いた。
あれやこれやと面接、諸手続きを済ませ、めでたく入社となった私は、その職場の仲間入りを果たした。幸運だった。
配属された部署は、八畳程の「個室」となっており、先輩方が二名、在籍していた。
先輩二名の内、一人は「クレオパトラ」と同じ髪型をした五十代の女性で、明るく優しい方だった。きっと蛇が似合うと、確信した。
もう一人の先輩は、本人自ら「マライアキャリー」を名乗る四十代の女性であったが、推定体重は百前後と見受けられた。
「宜しくお願い致します」
深々と頭を下げ、なるべく丁寧に自己紹介をした。
クレオパトラ先輩は「今日からよろしくね!」と、優しく微笑んでくれた。
マライア先輩は「歓迎会しなきゃねー」美しく装飾の施された爪をいじりながら言った。
二人の個性的な先輩のいる職場に仲間入りを果たした私は、必死に仕事を覚えた。
幸いにも、「第一印象は素晴らしく良い」「しかしその直後に絶望する」「見た目と中身が一致しない」と言わしめる私は、この二人を敵に回しては生命線を断たれると、本性を隠した。下品な話は封印した。
その甲斐あってか、初夏になって「時期外れだけど新人歓迎会」が、開催された。
場所は、新宿。
クレオパトラ先輩が予約して下さった居酒屋で、ビールで乾杯を済ませたあと、仕事の話しや趣味の話題で盛り上がった。
「kaiさんは休日は何をしてるの?」
まさか漫画読んで寝ているか、家事の合間に昼寝をする夫の鼻の前で、彼の洗濯前の靴下をぷらぷらさせ、その嫌そうな顔を見て笑っていますとは言えず、無難な回答をした。
「kaiさん、ご趣味は?」
どうしてそんなにも執拗に私の事を知りたがるのか、クレオパトラよ--------。
これが新人の通過儀礼なのだと割り切り、二十代の頃からの趣味である囲碁の話、現在は四段を目指していること、本因坊戦についてを二十分ほど繰り広げたところで、彼女を黙らせる事に成功した。
その後は、マライア先輩の趣味だと言う「サルサ」の話題に移った。
話しの中で、「私も憧れます!都会でお洒落な感じですね、サルサ!!私は、盆踊りとフォークダンスしか踊れないけど」発言が起爆剤となり、マライア先輩に夜の六本木へと連行されたのは、悲劇としか言いようがなかった。
勿論、その長い付き合いに於いて、「サルサに興味を示す」言動が鬼門だと知っていたクレオパトラ先輩は、居酒屋の前で「子供と夫が待っているから」と、夜の新宿の街に消えた。
こうして、私とマライアの熱い夜が始まった。
田舎者の私にとって、六本木は「未知の世界」であった。
夫との「都内デート」で行ったのは、秋葉原、御茶ノ水、神田、神保町、上野、原宿、巣鴨、谷根千、渋谷のみであり、六本木や代官山、自由が丘には敷居の高さを感じていた。
要するに、「高級そう」な地名がそのままのイメージとして定着しており、苦手だったのだ。
余談だが、私は上京して二年程は「八王子」は大都会のイメージがあった。
「末広がりの八」に「王子」だなんて、都会に違いない、ビルがたくさんあるに違いないと、行った事も無い八王子に思いを馳せ、また盲目的に信じ込んでいた。
六本木に到着した私は、まず道路脇に停車していた「外12345」のナンバープレートを見ては、「外」と書いてある事実に驚きを禁じ得なかった。
「外」とはなんだろうと思った私は、携帯で調べようとしたが、マライア先輩にやんわりと阻止された。
マライア先輩は人の悪い笑みを浮かべ、「あれ・・・外国の車なんだよ。だから外って書いてあるでしょ?」言いながら、何がそんなに可笑しいのか、顎の下の肉を揺らし笑った。
道すがらマライア先輩は、挙動不審な私に「ここは××で~」「あれが・・・」と言った具合にあれこれ説明してくれたが、残念ながら頭に入らなかった。
マライア先輩の「行きつけ」のお店に着いたのは、十時過ぎ。
お店に入ってすぐ二人分の会計を済ませたマライア先輩にお金を払おうとしたら、驕るからと断られた。
優しい先輩なんだな、マライアキャリーには似ていないけど。
不謹慎な私は何処までも無礼でもあるので、心の中でのみ呟いた。
これを口にすれば、月曜の会社に私の席は無いだろう。
軽くお酒を楽しんでから、マライア先輩は常連と思しき男性と会話を楽しんでいた。
手招きされ、初対面の四十代男性に紹介された。
二人のレクチャーを受けながら、「サルサ的な何か」を踊った。
二人とも苦笑していたが、要は慣れだからと言って励ましてもくれた。
直後だった。
唐突にマライア先輩は私の手を引き、中央まで連行した。
「踊るわよ!」
言うなり、マライア先輩は妖艶に腰をくねらせ、踊り始めた。
当然ながら、つい今しがたレクチャーを受けたばかりの私に、そんなど真ん中で
踊る根性なぞある筈がなく、成す術もなくぽつんと突っ立っていた。
踊るマライアの姿は、その豊満な肉体からは想像もつかないほど、美しかった。
足や腰の繊細な動き、弾ける笑顔、波打つ脂肪。
私はマライアが人にぶつからないか、それだけが心配だったのだが、上級者だけあって、上手に人との衝突を避けていた。
ひと踊りしたマライアが、汗で光る笑顔と共に私のもとへ帰ってきた。
結局、成す術も無くぽつんと立っているだけでは邪魔になるから、近くのイスに腰掛けて待っていたのだ。
マライアは「もー、ダメじゃないちゃんと踊らないと!」なんてのたまっていたが、盆踊りが精々の私には無理な芸当だ。勘弁してほしい。
こうして、私の「初めての六本木」の夜は終わった---------かに見えた。
帰り道、マライアが「イタリアの国旗」をじっと見て、「あの三色には意味があるのかしらねぇ」と言った。
私はしれっと、「え!知らなかったんですか?イタリアの国旗の色にはそれぞれ意味があって、グリーンがバジル、白がモッツァレラ、赤がトマトなんですよ。いやぁ、先輩のような都会の女性でも知らないことってあるんですね、いや驚いた」と、嘯いた。
行きに見た「外12345」の件をマライアを待つあいだ知人にメールしたところ、散々バカにされた腹いせである。
よもや信じたりはしないと思っていたのだが、彼女は--------純粋だった。
翌週、私の机はあったものの、激怒するマライアに一ヶ月ほどは口をきいてもらえなかった。
特段、彼女と話しをせずとも仕事は回るので、事情を知らないクレオパトラ先輩にも「ほんの冗談」のつもりで「マライアにも話したイタリア国旗の話」をした。
その結果、真に受けたクレオパトラ先輩も「あなたのせいで恥をかいた」と、次の日の休憩時間にこってりと叱られた。
不謹慎な後輩である私は読んでいた携帯小説(二次創作BL)が調度良いところだったのでついうっかりと、「今いいところなんです!もうすぐバリタチの攻めが、誘い受けの・・・」なんて返してしまい、更なる顰蹙と怒りを買った。
この件を境に、「ネコを被るのは良そう」と決め、以降は「折り目正しい下ネタを提供する、ホモ小説好きの新人」「真顔で信用のならない冗談を言う新人」として、三年ほど勤務した。
先輩方と過ごした三年間。
あの八畳一間の三人きりの空間で、私はありとあらゆる「ネタ」を提供し続けるのだが、それはまた別の話。