「大変だったけど、不幸ではなかったよ」

わたしが以前、お母さんはあの頃不幸だったんじゃないかと思い込んでいて、思い切って訊いてみたときに、「大変だったけど不幸ではなかったよ」と答えが返ってきた。
そのときは、「そうだったのか…」と驚いた。
そして、その言葉は、自分が自分にかける言葉でもあることが、今日わかった。
わたしは子どものころから自分の悲しい気持ちを軽視されることが多いと思っていて、ずーーーっと「わたしだって苦労してきた!!大変だった!!傷ついてきた!!」という気持ちを持っていた。さらに、それを無理矢理「わたしよりあの人のほうが大変なのにそんなこと感じたらダメ」と蓋をしていた。
ある時、感情は感じないかぎり浄化しないと知り、そこから事あるごとにノートに感情を吐き出すことを始めた。
「楽な生活できていいよね」と言われたと感じたたびに、こっそり「わたしがこの生活を手に入れるためにどれだけ苦労したか知らないくせに!」と泣き、「苦労知らなそうだね」と言われたと感じたたびに、こっそり「わたしにはこんなにつらいことがあったのに、今幸せなだけで勝手にあの頃のつらさは無いものにされるのか!」と泣いた。
数年間、事あるごとにこっそり泣いた。
つらかった。
悲しかった。
嫌だった。
わかってほしかった。
やめてほしかった。
わたしの痛みはあなたの痛みと関係ない。
わたしの痛みはわたしだけのものだ。
楽に生きて何が悪いんだ。
たとえ苦労知らずだとしても楽しく生きることを咎められていいはずない。
何度も何度も泣きながらノートに書いたり呟いたりした。
少しずつ、生きるのが楽になった。
自分にとっての幸せを知ろうとし、選ぼうとできるようになった。
それでも、「苦労知らず」というニュアンスの言葉に引っかかることはなかなかなくならなかった。
相手がどんな人でも、ただの僻みや嫉妬で言われたとしても、またはなんの悪意がなくても、そのキーワードに内心反応していた。
だが、今日は、そういったキーワードを前にしても穏やかな自分がいた。
「この人は自分が今つらいと感じているだけだ」
「この人に今わたしの苦労を訴えたいとは思わない」
「この人の価値観はわたしとは違う、それだけだ」
「現時点でわたしのほうが豊かで恵まれているのは事実」
などと、自分への慰めではなく冷静に考えていた。
一方で、今までは反射的に不快になっていたので、戸惑ってもいた。
その戸惑いを見つめているうちに気づいた。
過去のわたしをいつまでも勝手に不幸だと決めつけていたのは、わたしだということに。
その瞬間、どこからか、「大変だったけど不幸ではなかったよ」、と言われた気がした。
過去のわたしは、大変だったけど不幸ではない毎日を過ごし、今のわたしを育てたのだ。
過去のわたしを不幸だと思い込んでいたときは、心のどこかで、過去のわたしを正当化しなければならないと感じていた。
こんなに頑張ったんだから、こんなにつらい思いをしたんだから、こんなに我慢したんだから、このやり方にかかったコストを回収しなければと。
過去のわたしが苦労した分、今、幸せに「ならなければいけない」と。
それなのに、幸せを求めて楽に生きようとすることは、過去のわたしの努力を否定するような気持ちにもなっていた。
もしかしたら、今後また「苦労知らず」に引っかかることはあるかもしれない。
だが、もうわたしは知っている。
過去のわたしは、不幸ではなかった。
大変さを楽しんで、いろんな感情を感じただけだった。
過去にも、今にも、なんの問題もなかった。
わたしは苦労知らずだ。