それをプライドという

※特に被災された経験のある方には、いつも以上に不愉快な言葉があるかと思います。
今の職場には広島と縁のある人が多く、この土日に被災した事務所の応援に行こうかと言う。わたしは自身の私利私欲を優先するため参加できないのだが、それさえなければ、心から手伝いに行きたい、と思った。結果的には行かないので意味がないのだが。
東日本大震災のとき、わたしは関東におり、付き合っていた人と同棲していた。地震の後、彼は車で迎えに来てくれたのだが、リアルタイムで見ていた津波の映像にとても興奮していた。不謹慎なのはわかるけど、すごいよ。車も人も飲まれていって、あれはたぶんもうテレビには流れないよね。まいこも見るべきだった、ハリウッド映画よりすごい、やばい。当然ながらわたしはものすごく不愉快な気持ちになった。でも口に出さないだけで、彼のような気持ちになる人は少なくないと思う。普段から、海外の信じられないような映像が、エンターテイメントとしてテレビでは流れていて、人はそれを見て楽しんでいるわけだし。
彼はそのような人だったので、東北のボランティアに参加しないか、と言われたときは驚いた。でもその理由を聞いてわたしはまた不快になった。彼は言う。だってさ、こんなことたぶんもう二度とないよ。どういう風になっているのか、見てみたいと思わない?たぶん一生記憶に残るよ。そんな理由なら1人で行ってください、とわたしが言うと、まいこが一緒じゃないなら行かないよ、なんなの?と彼は不機嫌になった。
良い子ぶってんじゃねえよ、とわたしは彼によく言われていた。俺まいこのそういうとこすげえ嫌い。確かに、彼の言うとおり、わたしは良い子ぶっているから、彼の自分本位で明け透けな好奇心が気に食わないのかもしれない。良い子は、被災した人のことを考えて心を痛めるべきである。心のどこかでは、彼と同じようなことを考えている自分を、そのとき否定できなかった。いつも変わらない日常、守られた生活、そこに突然現れた想像だにできない世界。一生語られるであろう出来事の、当事者になるということ。
しかしどんな理由であろうと、行動することに意味はある。良い子ぶって頭の中で悶々と考え、何もしなかったわたしより、好奇心でも支援を行う人の方が実際には役に立つはずだ。お菓子をつまみながら、難病に苦しむ人のドキュメンタリーを見て涙を流す、そんな下卑た人間になりたくない、とずっと思っていた。わたしの中に好奇心がある限り、被災地に行くことはテレビをつけることと同じな気がした。そんな低俗な自分を認めたくなかった。でもきっとテレビを見なければ募金することもないだろうし、彼だって、行ってみたら何かが変わったのかもしれない。